新井奥邃の思想に学ぶ
「父性と母性」備えた神
宇宙創造の動因は神の「愛」
幕末から大正期に生きた新井奥邃(おうすい)という宗教者がいる。その特色は、名利に程遠くして隠者の生涯であったこと、青年たちに共同生活を通して多大無形の感化を与えたこと、制度的教義的なキリスト教を嫌ったことなどが挙げられる。しかし、それらの特色の中で最大のものは「父母としての神」「男女としてのイエス」という思想を説き、自らそれを信じて生きたことにある。その延長として、人間観にもこの男女両性が貫かれている。
彼は若い頃に江戸で儒学を修め、1870(明治3)年12月に初代アメリカ公使となる森有礼らと共に横浜を出港してアメリカに渡った。以来、スウェーデンボルグ思想の影響を受けた神秘主義思想家トーマス・レイク・ハリスのコミュニティーで自給自足の生活を送り、彼の言葉を借りれば、「昼は耕作に、夜は思索と祈祷(きとう)に捧(ささ)げ、信仰を内に掘り下げていった」という日々を過ごす。このようなアメリカでの生活は実に30年余りに及び、帰国後は少数の弟子に教えながら説教と著述を中心とした信仰生活を送った異才である。
奥邃が30年に及ぶ思索と祈祷からたどり着いた確信は、「二而一(二にして一)、一而二(一にして二)」の神である。つまり、一者なる神は「父性と母性」(二者)を備えたお方であり、両方の本質を持った絶対者であるという信仰理解にある。彼は、ギリシャ神話はじめ多くの宗教に登場する「性別を持った神々」(アフロディテや天照大神など)を否定する。その意味では、キリスト教の神が「父なる神」であり、あたかも男性神のように世間に伝播(でんぱ)されてきたことに対してもノーを突き付ける。あくまでも、一者なる神はその本質において「父性と母性」(二者)を備えたお方なのである。
確かに、聖書的に見ても、そのことは根拠付けられる。「神は自分のかたちに、人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記)と記されている。つまり、人の男女の起源が神の内の「かたち」にあるのなら、神のうちには男性的なものと女性的なものの双方があるのである。であればこそ、一般的にはキリスト教は父性的宗教だと言われ、キリスト教の影響を強く受けている欧米社会もまた父性社会だと言われるのに反して、聖書を紐解(ひもと)くとき、そこには、母性の姿が散りばめられているのに気付く。新約聖書の放蕩(ほうとう)息子の譬(たと)え話にもあるように、罪を犯した息子を無条件で、ありのままで受け入れ、抱き締めて迎え入れる姿はその代表的なものであろう。また、旧約にも、「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ」(イザヤ書)など母性的な神の姿は多い。
ところで、「二而一、一而二」は、人間観にも適応される。つまり、ひとりの人間の内に共存する「父性と母性」のことである。冷静に考えれば分かることだが、男性であれ女性であれ、我々の内面を観察すると、両者のペルソナ(温かく包み込む母性と退路を断って挑戦する父性)が一身の内に共存していることを発見する。しかし、我々は時に誤解する。男性にあるのが男性ホルモンで、女性にあるのが女性ホルモンだと。実際には、両方のホルモンはともに男性でも女性でも作られている。一例だが、男性ホルモンの一つであるテストステロン値が高い人物は、男女を問わず冒険心があって判断力に優れ、さらに公平性を重視し、人に慕われるリーダーになりやすい資質があると言われている。
さて、奥邃の世界観が我々に教えていることを2点にまとめたい。一つは、今から138億年前にビッグバンが起こり、そこから宇宙が創造されたと科学者は理論付けるが、その理由に触れることはない。奥邃の世界観に出会うとき、その宇宙創造の動因は「愛」であると確信できる。今日、宇宙は偶然に創られ、歴史は目的もなく行き当たりばったりの時間を刻んでいるという価値観が人々を覆っている。しかし、「父性と母性」を備えた神が創造を担ったと確信できるとき、そこに、愛のエネルギーを感じ、天地は有情なのだと信じることができるのである。
二つ目は、父性を失った母性、母性を失った父性の悲劇ということである。父性も母性も本来は一つであり、この両者がバランスよく機能することが大切である。しかし、社会を見ると、バランスを欠いた状況に陥ってはいないだろうか。父性を失った母性、つまり「切断」されることのない母性は、包み込みが、しがみ付きへ、そして飲み込み、やがて死に至らしめる。逆に、母性を失った父性は、切断と自己責任は強調するが、「ありのままで受け入れる」というケアがないので相互の孤立を深めることになる。
ところで、胎児は母の胎内での2カ月ごろまでは、どちらの性へも分化できる能力を持っている。まさに、一人の胎児の中に二つの可能性が秘められている。そして、これは単にヒトとしての性別が決まったら終わることではなく、人生を通じて「父性と母性」という二つの可能性を担い続ける。ここにもまた、神のかたちを見るのである。
(かとう・たかし)