定年制なき世界に備えよ
高齢者差別の制度廃止へ
自らの能力高める努力必要に
100歳まで生きる時代が到来し、定年後をどう生きるかについての解説本が本屋に並んでいる。近く定年を迎える人や既に迎えた人にとって定年後を考えることは重要だが、若い人にとっては定年制がなくなる世界に向けた準備を進める方が重要ではないだろうか?
定年制は、ある一定年齢に達した雇用者を原則として全員退職させる制度であり、我が国固有のものである。年齢によって職業選択の自由を奪うという意味で高齢者を差別的に扱っており、主要先進国においては法律上禁止されている行為である。
本格的な少子高齢化が進行し、労働力を補うために女性や外国人と並んで高齢者の積極的活用が求められている今日、何故このような制度が残っているのだろうか?
定年制は、いずれも我が国特有の雇用制度・慣行である終身雇用および年功序列と密接に関係している。雇用者に対して定年まで長期間の雇用を保障する一方、毎年の賃上げを確保し、肩書面でも年齢に応じた処遇が行われることが多い。ただし、年配者優遇を永遠に続けることはできない。
特に、雇用者の能力や業績不振による解雇が原則認められない我が国の雇用制度・慣行の下では、ある一定年齢に達した人を強制的に退職させる定年制は貴重な雇用調整手段となっている。しかし、これまで存在理由があったとしても、今後とも定年制は持続するだろうか?
経済・社会構造の変化やグローバル化の進展もあり、近年、我が国企業における働き方は大きく変化しつつある。定年制により雇用保障を図るという考え方は薄れ、環境の変化に応じて雇用を弾力的に調整する必要が高まっている。また、親世代は終身雇用に浸(つ)かっていたが、若い世代は自由に職場を移り歩く時代となっている。
賃金決定の在り方も変わりつつある。これまでのような同期横並び的な発想ではなく、能力主義、成果主義の考え方が取り入れられてきている。働き方改革は、仕事を時間ではなく成果によって評価する考え方を広め、やがて賃金もそのように決定されるであろう。
定年制は我が国が目指す多様性のある社会に逆行するものであるとも言える。少子高齢化の影響が深刻化している我が国においては、性別、出身国、年齢を問わず、皆が等しく働ける社会を目指すことが喫緊の課題である。
これまで女性や外国人の雇用促進が進まなかった理由の一つとして終身雇用や年功序列の存在がある。結婚、出産、育児等の面から女性は「終身雇用」になじまないと見られ、外国人についても特に高度の知的労働者は「年功序列的な処遇」と相いれないと考えられてきた。ところが近年、これらの面でも着実な変化が表れつつあり、女性や外国人の活用が進んでいる。
高齢者の活用はどうであろうか? 定年の延長や賃金引き下げを伴った雇用継続が議論されることが多く、定年制そのものを廃止すべきだという議論はあまりない。慶應義塾大学の清家篤教授が『定年破壊』という著書の中で定年制の廃止を強く主張されてから18年が経過している。にもかかわらず、やる気も能力も十分ある高齢者の雇用を妨げ、低賃金を押し付ける差別的不平等に対して抜本的解決は図られず、ただ問題の先送りが議論されている。
定年制の廃止は、一つの組織に長く居続けることを目的とすべきでない。むしろ、年齢や性別に拘束されることなく、自己の能力、適性、好みによって自由に職業選択・変更ができる世界とすべきである。そもそも健康寿命が延びるのであれば各人のライフステージに応じて柔軟に職場を替えることが可能となるべきである。これにより企業は常に新しい人材を活用できることとなり効率性は高まろう。
一方、高齢者を差別する仕組みの撤廃は高齢者を優遇する施策の見直しとセットになるべきである。賃金や昇進において能力主義を徹底すべきであるし、雇用関係以外でも医療費や各種の高齢者優遇措置は見直しされるべきである。これらは難しい問題であろうが、高齢化社会を迎えた今日、避けては通れないはずである。
定年制は年配者を敬うという我が国の伝統に基づいたものであり、簡単に変わるものではないという主張もある。しかし、家族や地域社会等において年配者を敬うことと企業等における組織管理は別次元の問題であろう。
定年制が廃止された世界で一人ひとりの雇用者にとって決定的に重要になるのは、性別や年齢ではなく個々人の能力である。これまで日本のサラリーマンは自己の能力開発に関して無関心であり過ぎた。終身雇用を前提として会社が提供する能力開発プログラムに乗っていれば安心だったが、これからは違う。個々人が自らの能力を高める努力を払い、その能力を効率的に使うことによって組織に、そして社会に貢献していくことが求められる。
定年後ではなく、定年制が廃止された後の世界に向けて準備を進める必要がある。
(かしわぎ・しげお)