法と秩序が乱れた2017年
「国難」直視せぬメディア
伝統や文化の破壊をあおる
人間社会において平和で仲良く共存していくためには、法と慣習によって秩序が守られていることは、言うまでも無く大切なことである。「法」は違反したものに対し懲罰や罰金などを科すことによって公正な社会を維持している。これは国内の問題に限らず国際社会についても同じことが言える。2017年はそのような意味で法と秩序が大きく乱れた年であったように思う。
国際的には南シナ海の領土問題について中国によって大きく国際秩序と平和を乱す行為があり、これに対して国際社会の公的機関によって法の裁きが下されたが、中国政府は力を背景に神聖な裁きを紙くず化した。一方、それに対して国際社会だけではなく、当事者であり主権国家であるはずのフィリピンの大統領までが容認するような言動を取った。
また日本の領海領空に対して、中国が頻繁に違法行為をしているにもかかわらず、これに対して「厳重な抗議」という儀式的な処置で終わっている。その頻度が多いせいか、メディアまでもが、もはや、この脅威に対し報道すらしなくなっている。
さらに国連からの再三の忠告にもかかわらず、北朝鮮が行っている度重なる核実験に対しても、結局、何らの効果的な措置を取ることなく、いまだに野放しの状況になっている。安倍首相の言葉を借りるならば、これらの「国難」を完全に排除しているわけではない。このまま放置すれば、18年には尖閣諸島などへの、より大きな国難に直面する可能性は大である。
安倍首相が上記の危機に対し、開かれた自由なインド太平洋の安全保障を確保すべく奮闘していること自体は評価できる。だが、国民の世論に大きな影響をもたらすメディアは、森友学園や加計学園問題など小さい問題を大きく取り上げることによって、それ以外の深刻な問題から目をそらせようとしているように感じる。
元横綱日馬富士による暴行事件に対するメディアの過熱報道を例に挙げても、日本国民が直面している重大な問題よりも大きく扱い、時間と資金を浪費しているように見える。それと同時にメディアは社会の伝統的価値や文化をぶち壊すことに生きがいを感じているようである。私は日馬富士の暴力行為を正当化するつもりは全く無いが、結果として暴力を受けた側が正しく、暴力を振るったものが悪であるという単純な構図に疑問を感じる。
確かに日馬富士は貴ノ岩にけがをさせたという法的に重大な過ちを犯しており、その責任は当然負うべきである。だが慣習的に相撲の世界、その他日本の伝統ある芸能、武道など「道」を重視する社会にはその社会を何世代も支えてきた慣習に基づく秩序というものがある。そのような意味では、秩序を乱した貴ノ岩の行為に全く責任が無いわけではあるまい。またモンゴル社会においては、モンゴルならではの伝統と文化に基づく価値観と秩序がある。
今回の、まるで裁判官でもあるかのように、モンゴルの力士たちだけを責めるメディアの報道姿勢は、日頃国際化や多様性を公言している人々が、いかに偽善的であるかを露呈しているように私には見える。メディアと自称リベラルの人々は、単に相撲協会の歴史と伝統を破壊するために、この事件に便乗しているのではないだろうか。
同じことがNHKの受信料訴訟問題についても言える。「悪法も法なり」という言葉があるように、裁判官たちはただ法律を文字通り解釈するだけだ。それによる社会的影響、もっと重要なこととしては公共放送としてのNHKの公平公正さに基づく役割を忠実に守っているか、受信者が信頼し、喜んで受信料を払う価値のある報道をしているか、について言及していないのは誠に残念である。
さらに熊本市議会で女性市議が乳児を抱いて議場に出席したことに対しても、ほとんどのメディアは彼女に同情と理解を示し、同席を認めなかった同僚議員が悪いかのように伝えた。もちろん彼女に対しても同情すべき点は無いとは言わないが、彼女は議員である以上、自ら率先して議会の制度改革に対する働きをした上で現状を訴えるべきだ。パフォーマンス的な行為は議会を軽視したものであるし、乳児を何時間も会議に耐えさせることは幼児虐待に等しく、乳児が泣けば議事進行の妨害とも考えるべきだ、という指摘がメディアから挙がることは無かった。
以上の出来事を見ても17年は法と秩序の乱れた年であったように思う。ただ明るいニュースとしては将棋と囲碁の世界で2人の7冠を達成した棋士の国民栄誉賞受賞が内定し、しかも羽生善治氏と井山裕太氏が紙面でお互いをたたえエールを送る姿はすがすがしく、日本の優れた精神が生きていることに感銘を受けた。
若い藤井聡太氏とベテランの加藤一二三氏の対局場面での優雅な礼儀作法に徹した姿も見事であった。正直に申し上げて、そこで藤井氏が勝利のガッツポーズでも取ろうものなら、将棋そのものに対する私のイメージも変わったことだろう。
18年は日本および世界が、法律と慣習が正義と公正公平に基づいて行われる社会として発展することを心から祈願している。