行き過ぎた「分析知」の弊害
孤独に苛まれる子供たち
「関係知」の知恵語る梵我一如
我々がよく目にする植物について二つの言い方で描写してみたい。一つ目。「典型的な場合、雌蕊(しずい)は1本、雄蕊(ゆうずい)は6本。6枚に分かれた花びらと、中心に筒状の花びらを持つが、6枚に分かれている花びらのうち、外側3枚は萼(がく)であり、内側3枚のみが花弁である」。二つ目。「白い一片の雲のように、私は独り悄然(しょうぜん)としてさまよっていた。すると、全く突如として、眼(め)の前に花の群れが、黄金色に輝く夥(おびただ)しい水仙の花の群れが現れた。湖の岸辺に沿い、樹々(きぎ)の緑に映え、そよ風に吹かれながら、ゆらゆらと揺れながら、躍っていたのだ」。
如何(いかが)だろうか。これは両方とも「水仙」のことである。前者は植物図鑑の解説であり、数値を用いて冷静に客観的という印象がある。後者は、イギリスの詩人ワーズワースの詩「the daffodils(水仙)」の一節。突然目の前に現れた水仙の群れに感動し、彼の心が水仙のただ中にあるような雰囲気が伝わってくる。このように、同じ花を言い表すにしても、数値を用いて冷静に客観的にという「分析知」とでも言うべき知り方もあるし、主客が一体となって喜びに溢(あふ)れるような「関係知」とでも言うべき知り方もある。
さて、我々は明治以来、分析知を土台に据えて欧米に追い付け型の近代化の道を突き進んできた。そして今、世界で指折りの経済力を誇り、平均寿命が明治期の50歳代から80歳代に飛躍し、高度な教育と医療が享受される「富国」となった。ほんの百年ほど前まで、日本には慢性的に飢饉(ききん)や暴動があり、貧しさと隣り合わせの暮らしが普通であったことを思うと隔世の感がある。
しかしながら、一方において、分析知の行き過ぎとでも言うべき、由々しき事態がここ10年20年で起きていないだろうか。一例を挙げたい。10年前にユニセフが世界25カ国の15歳の子どもを対象に行った国際比較調査で、日本の子どもたちが断トツに数値の高かった項目がある。一つは「日常的に孤独を感じる」の回答が29・8%であり、他の国は数%だったこと。もう一つは、「30歳になったら、どんな仕事に就いていると思うか」に対して、「非熟練的な仕事への従事」と答えた者が50・3%だったことである。両方とも断トツの数値であり、質問の本質から見て看過できない問題を含んでいる。
想像するに、中学3年生ほどの15歳と言えば、日々に活力が漲(みなぎ)り、将来の夢と希望に向かってという時期ではないだろうか。しかし、多くの子どもが孤独に苛(さいな)まれ、自己信頼とか自尊心とは正反対の、自分への諦めや後ろ向きの態度が漂っている気がしてならないのだ。孤独や孤立によって人間関係が分断され、自分の学力の優劣によって将来の姿がおおよそ予想でき、仕事に明け暮れる親と会話もままならない日常を過ごし、ネット社会が陰湿ないじめの温床になっている。要は、つながりの欠如した、効率優先の分断社会を子どもたちは生きているのである。
ところで、はじめに、「分析知」の対極にあるものとして「関係知」ということを指摘した。それを「つながり知」や「縁の知」と言い換えてもいいかもしれない。古来、人類の知恵は、この「関係知」について豊かに語っているように思うのである。その一つが、仏教以前からある思想としてウパニシャッドで語られ、仏教の土台ともなっている教え、「梵我(ぼんが)一如(いちにょ)」である。梵とは世界の本質のようなもので、我というのは言うまでもなく個別化された自分のことである。その梵と我が本質的には一体であるという思想である。「自分とこの世界が一体である」「自分と他者が一体である」という境地を言うのだ。
これを髣髴(ほうふつ)とさせる星野富弘の詩を紹介したい。体育の教師だった彼は、授業中の事故で首から下が麻痺(まひ)してしまったが、味わい深い詩で多くの人々を慰めている。「菜の花」と題する詩にこのような言葉が並ぶ。「私の首のように茎が簡単に折れてしまった。しかし、菜の花はそこから芽を出し、花を咲かせた。私もこの花と同じ水を飲んでいる。同じ光を受けている。強い茎になろう」。詩人は、茎の折れた菜の花と自分の境遇を重ね合わせ、自分もこの逞(たくま)しい花と同じ水を飲み、光を受けているという形で梵我一如の自覚を深めていく。
「梵我一如」とともに、新約聖書も「関係知」の知恵を豊かに教えている。使徒パウロは、からだと器官が一体であることの妙味をコリント人に語る。「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」。
マザー・テレサは言う。「豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。誰からも必要とされず、誰からも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です」。彼女もまた、関係知の復権を語っている気がするのである。
(かとう・たかし)