ソ連の対日参戦、米軍が主導

中澤 孝之日本対外文化協会理事 中澤 孝之

米ソで綿密に計画練る
ヤルタ密約の内幕明らかに

 戦後の日本とロシア(ソ連)の間の最大の懸案事項は「北方領土問題」で、いまだに問題解決の糸口さえ見えない。安倍首相の意気込みにもかかわらず、戦後処理に決着をつける日露平和条約が締結される見通しもない。こうした状況を作り出すきっかけとなったのが、「ヤルタ密約」といわれる秘密協定であった。1945年2月4日から11日にかけて、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連人民委員会議議長(首相)の3首脳が当時のソ連邦クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリバルディア宮殿に集まり、会議を開いた。「ヤルタ会談」である。

 さて、翻訳書「ローズヴェルトとスターリン―テヘラン・ヤルタ会談と戦後構想(上)」(松本幸重訳、白水社)がこのほど出版された。原著は2015年に刊行された大部の本で、邦訳は上下2巻で構成される。著者はスーザン・バトラー。ニューヨーク育ちで、ベニントン大学卒業後、フリーランスの女性ライターとしてニューヨーク・タイムズ紙などに定期的に寄稿している。

 話は日ソ中立条約締結(1941年4月13日)の約2カ月後にさかのぼる。「ヒトラーがソ連との不可侵条約を破棄して侵攻したあと、日本もまた裏切り行為に出て、(ソ連に)侵攻するかもしれないという恐怖がスターリンの頭をよぎった。とりわけ、日本が、ソ連の弱体化を目にしたら、そうするだろうと。この考えをスターリンは42年8月に訪ソした大統領特使ハリマン(のちの駐ソ大使)を介してルーズベルトに伝えた。『いずれソ連は参戦するだろう……日本はロシアの歴史的な敵国である。そして日本の最終的な敗北はソ連の利益にとって絶対不可欠である』。このような背景があったので、米国軍部はテヘランまでに、米ソ共同戦争のための対日戦闘計画を準備していた―そしてそのときがきた」とバトラーは書く。

 そして、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3首脳は初めての顔合わせ、テヘラン会談(43年11月28日~12月1日)を開催した。ルーズベルトはこのテヘラン会談で、米国の対日作戦計画の概要を示す統合参謀本部の文書をスターリンに手渡した。それは、米ソ共同攻撃を前提としていた。当時の日本政府は米軍主導のこうした対日軍事作戦の動きを知らなかったのだろうか。さらに、44年10月15、16日クレムリンで米英ソ3国の軍部が最初の対日行動について話し合った。スターリンは集まった軍幹部たちに言った。「ソビエト軍を(極東に)1カ月ないし2カ月間維持するのに十分な補給物資は、3カ月で集積できよう。日本に致命的な打撃を加えるにはこれで十分だろう」。そして、スターリンは次のように付け加えた。「(ソ連の対日作戦はドイツの敗北から)3カ月ないし数カ月後に開始できるだろう。それは短期戦になるだろう」と。この2日間の会合で、米ソ両国の出席者はスターリンを中心に具体的な対日戦略を練った。

 バトラーは「スターリンは1905年の条約でロシアが日本に譲渡した領土、それに加えてロシアがかつて領有していたクリル諸島を求めていた」と解説する。ソ連の対日参戦はヤルタ会談以前から米ソで綿密に議論されていたのだ。

 対日参戦問題はヤルタ会談5日目(2月8日午後)の主なテーマだった(ソ連の対日参戦に関心の薄いチャーチルは欠席)。ルーズベルトは会談の冒頭にこう述べた。「マニラ陥落とともに、新航空基地を建設し、日本への強力な爆撃を開始するときがきた。これによって恐らく日本諸島への実際の上陸作戦を避け、従って米国人の生命を救えるだろう」。そのあと、スターリンは「ソ連の対日参戦の政治的条件」の検討をルーズベルトに迫った。

 「米統合参謀本部は(1年の大半を通じて)ルーズベルトにソ連の対日参戦が絶対必要であると強く助言し続けていた」とバトラーは記述。「われわれが日本に攻め入る前に、ソ連を対日戦へ参加させるためにあらゆる努力をすべきだ」と、マッカーサーはルーズベルトに勧告した。「1905年のポーツマス条約でロシアが日本に失ったものを取り戻すことが、今やスターリンの目標だった」とバトラー。両者の合意は「秘密協定」として文書化された。

 ルーズベルトがスターリンに対日参戦を強く促した要因は何だったか。「日本人との戦闘で命を落とす米国人の数を少なくする問題だったのである。原子爆弾はその時点では未完成で、当てにするわけにいかなかった。問題は米国人の生命を救うためにソ連の戦闘部隊に協力を求めるということに落ち着いたのである」とバトラーは書く。スターリンのソ連(ロシア)はルーズベルトの全面的な協力を得て、南サハリンとクリル諸島という貴重な「戦利品」を獲得したのだ。

 バトラーは日ソ中立条約をめぐる興味深いエピソードを紹介している。「外相としてモロトフは、日本の駐ソ大使佐藤尚武と時々会っていた。ソ連に日ソ中立条約を尊重する意図があるのかどうかを把握するのが、佐藤大使の仕事である。モロトフは日本に対するソ連の態度に変化が生じたことを悟られないように、極めて用心深く行動した。佐藤大使はモロトフと会見して、45年2月22日になっても本国に報告していた―モロトフはいつもどおり愛想がよく、にこやかだった。そして会見の間中、私は彼の人柄の温かさを感じた、と」。そのモロトフは約40日後の4月5日午後3時に佐藤大使をクレムリンに呼び出し、日ソ中立条約の破棄を伝えた。

(なかざわ・たかゆき)