冷戦下の「ミグ25事件」の教訓
拓殖大学地方政治行政研究所附属防災教育研究センター副センター長 濱口 和久
「防衛出動」発令されず
北核・ミサイル対策は万全か
北朝鮮による核・ミサイル発射(実験)が繰り返されている。現時点では日本列島への直接的被害や、日本人の犠牲者は出ていない。だが今後、北朝鮮が発射に失敗し、日本列島に破片が落下したり、最悪の場合には、ミサイルが着弾したりすることもあり得るだろう。そうなれば、人的被害も含め、大きな被害が出る。日本は北朝鮮の核・ミサイル発射には、海上自衛隊のイージス艦搭載の迎撃ミサイル(SM3)や、航空自衛隊の地上配備型迎撃ミサイル、パトリオット(PAC3)で対応しているが、百パーセント迎撃できるわけではない。日本政府の危機管理体制も万全とは言い難い。
ところで、今から約40年前に起きた「ミグ25事件」のことを憶えている日本人はどれぐらいいるだろうか。この事件は、北朝鮮の核・ミサイ発射とは危機の種類が違うかもしれないが、安全保障上は同じ危機的状態を意味している。また、政府内のドタバタや自衛隊の行動を考える上で、いろいろな教訓を残した事件だ。
では、「ミグ25事件」とは、どのような事件だったのか。
昭和51(1976)年9月6日12時50分、ベレンコ中尉が操縦するソ連軍の最新鋭戦闘機ミグ25が、ウラジオストクの北東約200キロに位置するチェグエフカ空軍基地を離陸。訓練空域に向かう途中で、突如コースを外れ一気に高度を下げて北海道を目指した。
これに対して、13時11分、航空自衛隊北部航空警戒管制団の奥尻、賀茂、当別、大湊のレーダーサイトがベレンコ中尉機(この時点では国籍不明機)を捕捉する。領空侵犯の恐れがあるとして、13時20分、空自千歳基地から2機のF4EJがスクランブル発進したが、見失ってしまう。地上のレーダーサイトも超低空飛行する航空機には対応できず、レーダーからも消えた。
その後、大湊のレーダーサイトが再び奥尻島東部に国籍不明機を捕捉。しかし、最後まで発見されないまま13時50分、函館空港にベレンコ中尉機がオーバーランして強行着陸。すると、函館空港は完全閉鎖され、北海道警によって厳重に警備された。
ソ連側は当日中に、外務省に対してベレンコ中尉との面会および身柄の引き渡し、機体の早期返還を要求。それに対して、日本政府は9月7日、関係省庁による対策会議を開き、対応を協議した結果、ベレンコ中尉を東京に移送した。8日に坂田道太防衛庁長官の「ミグ25の領空侵犯によって、わが国の防空体制に欠陥のあることが明らかになったので、今後万全を期するためにも防衛庁独自の調査が必要である」という表明を受けて、防衛庁はベレンコ中尉への事情聴取を行った。そして9日夜、ベレンコ中尉は米国中央情報局(CIA)の護衛の下、羽田空港から米国に亡命した。
自衛隊の現場でも8日以降、さまざまな動きがあった。陸上自衛隊は極秘裏に行動し、事実上の「防衛出動」に出ていた。スイス駐在米大使館付武官から「最先端の軍事技術流出を恐れたソ連軍特殊部隊がミグ25を破壊するため、ゲリラ攻撃に出る」という「A1」情報がもたらされていたからだ。
この情報により、函館の陸自第11師団第28普通科連隊の高橋永二連隊長以下隊員たちの緊張は頂点に達していた。この緊張感はミグ25が函館から離れるまで続くことになる。
ソ連軍の奇襲侵略を受けても、本来は首相の防衛出動命令が出るまで動けない。高橋連隊長の行動は超法規的ではあったが、先制攻撃を受けてからでは手遅れになるとの判断の上での行動だった。
9月24日、米軍のC5大型輸送機でミグ25を空自百里基地に移送。移送に際しては、ソ連軍機によるC5大型輸送機の撃墜の可能性もあり、空自のF4EJが百里基地まで護衛に当たった。百里基地では機体の調査が約1週間にわたって米空軍の協力を得て行われた。
10月2日、外務省はソ連側に10月15日以降にミグ25を返還する用意があることを伝える。11月12日、茨城県日立港に移送され、ソ連側による確認作業が行われたのち、15日にミグ25を積載したソ連貨物船タイゴノス号はソ連に向け出港し、事件は終結した。結局、最後まで防衛出動は発令されることはなかった。
一方、国会は「三木おろし」の大合唱の中、三木武夫首相は政権を維持することしか頭になく、防衛出動命令を出すのをためらったのだ。
結果的にはソ連軍の侵攻はなかったが、一刻を争う国家の緊急事態に、三木首相に国民の安全を守る気概はあったのだろうか。警察庁、法務省、運輸省、大蔵省、通産省、外務省、防衛庁の関係省庁も、ミグ25の扱いを「腫(は)れ物」にでも触れるような対応に終始した。
事件終結後、三木首相と坂田防衛庁長官は、この事件の対処に当たった陸自に対し、事件に関する全ての記録を破棄するように指示。現地部隊の一切の行動を永久に消し去ろうとした。この時、三好秀男陸上幕僚長は破棄方針に反対して、自ら辞任し抗議している。
以上が「ミグ25事件」の経過だ。日本を標的に北朝鮮が核・ミサイル攻撃を仕掛けてきた時に、安倍政権が三木政権のような醜態をさらせば、北朝鮮の思うつぼとなる。日本政府が危機管理能力(対処能力)を今以上に高めていくことが、北朝鮮への抑止力にもつながるのだ。
(はまぐち・かずひさ)