「Do型人間」推進論への疑問
生の被贈与性」を忘却
謙虚、責任、連帯の崩壊招く
以前に医療関係者から50代の男性患者の話を聞いたことがある。彼は経営者として社会の中でバリバリと働いていたが、癌(がん)が見つかって入院してきたという。すでに癌の進行を止める手立てがない状態で、余命は月単位だろうとのことだった。幸いにも、肉体的な痛みはなかったが、今までは当然のことだった「自分で歩く」「トイレに行く」等のことが徐々にできなくなり、車いすを家族に押してもらわなければことが足りなくなってきた。このような入院生活の中で、彼の心境に変化が起こったという。惨めさの増大である。これまで自分がバリバリと働き、家族を支え、養ってきた。経営者として少なからず地域社会にも貢献してきた。それが自分の生きがいだったのに、もうそのようなことは期待できない。そして、担当医師に言ったという。できれば安楽死させてほしいが、日本ではそれは無理だろう。であれば、自分が死ぬまでずっと眠らせておいてほしいと。
この男性患者のように、生きがいの底流には、自分が誰かの支えになっているという意識、自分の持てる技術や能力を生かして人の役に立っているという感覚がある。しかし、ふと考えてしまうのだ。一生の間、このような「自分が誰かを支える」というベクトルだけでよいのだろうか。最近の社会では、「人様の役に立つ人間、支えになる人間こそ素晴らしい」という、言わば「Do型人間」推進論があまりにも強調されすぎていないだろうか。
たとえば、最近は「一億総活躍社会の実現」というフレーズがここそこで語られている。確かに、元気の出る響きである。これは、政府が熱心に取り組んでいる施策の一つであり、政府広報によると、「女性も男性も、お年寄りも若者も、一度失敗を経験した方も、障害や難病のある方も、家庭で、職場で、地域で、あらゆる場で誰もが活躍できる、いわば全員参加型の一億総活躍社会を実現する」と謳(うた)っている。しかし、その底流には総活躍と経済とは不可分なのだという経済成長の論理が染み出ている気がするのだ。「勝ち組」「負け組」の論理もしかりである。
翻って考えるに、「Do型人間」の対極にある存在は何だろうか。乳幼児がそうだろう。彼らは親の全面的な保護と養護がなくては生きることができない。まったく無防備であり、全的に依存状態であり、「Do型人間」の対極にある存在である。それが証拠に、我々は子どもが誕生するときに、元気に生まれ出てくるだけで十分だと願うのである。才能がどうしたとか、「Do型人間」の可能性はどうかなどとは問わない。この世に存在したことだけで十分な喜びを感じるのである。
同様のことは、高齢者にも言えないだろうか。日本人は平均寿命が高いことを誇ってはいるが、健康寿命で見るならば、最後の10年15年は介護の必要な人たちが多い。高齢者も健康を損なうにつれて無防備で依存状態となり、「Do型人間」の対極に進んでいく。乳幼児にしても高齢者にしても、彼らに「Do型人間」を期待するのは本質的に違うのではないだろうか。彼らの本質は、存在していることに価値がある「Be型人間」なのである。我々は幼子の愛くるしい姿が喜びであり、老人の静かな佇(たたず)まいに感動するのである。では、その中間に位置する青年期、壮年期こそは「Do型人間」を追求すべきだと自信をもって言えるだろうか。
このことに関して、白熱教室で有名なマイケル・サンデルが意味深いことを指摘している。「超行為主体性」と「生の被贈与性」ということである。「超行為主体性」とは、精子バンクでアレンジしたデザイナーベビーのように、人間も含めた自然を作り直し、我々の用途に役立て、我々の欲求を満たしたいという熱望のことである。そのような欲求の際限なき拡大は、人間と世界を破壊しかねないと彼は警告する。なぜなら、「生の被贈与性」を忘却しているからだと。つまり、ギフトである「贈られたものとしての生」の感覚の欠如がもたらすのは、我々の道徳の輪郭を形作っている謙虚、責任、連帯の崩壊なのだとサンデルは指摘するのだ。
思うに、我々人間は子どもであれ大人であれ、その本質においてまったく無防備であり、全的に依存状態であり、「Do型人間」の対極にある存在ではないだろうか。我々は誕生のときを選択できず、死ぬときを選択できない。両親や国家や時代を選んでこの世に来たわけでもない。水も空気も大地も太陽も恩恵という形で浴している。人生に彩りを添える他者との出会いも運命的なことであり、我々の浅薄な計画表の次元を超えた神秘である。そのように圧倒的に依拠的で、生の被贈与性の中で生きている人間存在が、「支えになる人間こそ素晴らしい」とか、「Do型人間」を目ざそうなどと言うのは、存在の本質を見失った議論ではないだろうか。
さて、旧約聖書ヨブ記の中で、多くの悲惨を味わったヨブはなおも語るのである。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と。
(かとう・たかし)