自衛隊初の海外派遣から25年
拓殖大学地方政治行政研究所附属防災教育研究センター副センター長 濱口 和久
掃海で世界に実力示す
安保法制成立で新たな任務
自衛隊初の海外派遣から四半世紀が過ぎた。平成4(1992)年6月19日に国会で国連平和維持活動(PKO)協力法が成立すると、現在までに国際平和協力業務はカンボジアPKOを皮切りに、27回実施されている。このうち自衛隊のPKO活動(人道支援活動を含む)は14回を数える。この間、延べ1万人以上の自衛官が海外に派遣された。
そして、PKO協力法が成立する前、自衛隊初の海外派遣の実任務に就いたのが、ペルシャ湾に派遣された海上自衛隊の掃海部隊だった。
平成2年8月2日、イラクがクウェートに侵攻し湾岸危機が勃発。同月8日にイラクはクウェートの併合を発表する。
国連はクウェートからの即時撤退を求めたがイラクが拒否したため、11月29日に多国籍軍の派遣を決定。イラクの侵攻から6カ月後の平成3年1月17日、多国籍軍によるイラク空爆(砂漠の嵐作戦)をきっかけとして湾岸戦争が始まる。多国籍軍は2月27日までにクウェートの解放に成功。イラクのフセイン大統領は敗戦を認め、3月3日には暫定停戦協定が結ばれた。
戦争が終結しても、ペルシャ湾にはイラク軍が敷設した約1200個の機雷が残り、海上交通に支障を来す状態が続いていた。特に原油の7割を中東からの輸入に頼っている日本にとっては深刻な問題だった。湾岸危機・湾岸戦争における日本の対応が、資金協力にとどまり人的派遣がなかったことで、多国籍軍に参加した国々から日本は批判を受けた。
そこで4月24日、日本政府は自衛隊初の海外実任務として、ペルシャ湾に海自の掃海部隊の派遣を決定する。
掃海部隊は、第1掃海隊群司令の落合畯1佐(当時)を指揮官に、総員511人の隊員と、掃海母艦「はやせ」、掃海艇「あわしま」「さくしま」「ひこしま」「ゆりしま」、補給艦「ときわ」の6隻で編成され、4月26日にそれぞれの母港から出港。1万3000キロの航海を経て、5月27日にドバイのアル・ラシット港に入港する。6月5日から9月11日まで機雷の掃海作業を実施した。
ペルシャ湾での掃海部隊の活動は、暑さとの闘いでもあった。派遣された時期が、1年間を通してもっとも暑い季節で、連日、最高気温が50度近い日が続いた。おまけに機雷の触雷という事態を想定して、隊員たちは不燃性の長袖の戦闘服に、ヘルメット、救命胴衣、防塵用の眼鏡とマスクを着用したので、すぐに下着が汗でびっしょりになった。
掃海部隊は99日間で合計34個の機雷を処分した。内訳はリモコンによる遠隔操作による爆破が5個、水中に隊員が入り、機雷に近づいて手作業で爆破させたものが29個であった。
掃海部隊がペルシャ湾に入った時には、既に約1000個の機雷が処分されており、残りは200個程度と見積もられていた。しかし、これらは手付かずのまま掃海作業の難しい海面に残されているものと考えられ、米国海軍の現地指揮官のテーラー少将の「最初の100個に比べ、最後の100個の機雷の捜索は極めて難しいものとなる」との言葉通りに、それ以前の作業とは比較にならないほど困難を極める作業となったようだ(海上自衛隊50年史『「湾岸の夜明け作戦」に掃海部隊派遣』)。
与えられた任務を全て終えた掃海部隊は1人の死者を出すことなく、9月23日にドバイのアル・ラシット港を出港し、日本に無事帰国した。
ここで、落合1佐がまとめた記録集『湾岸の夜明け作戦』の中から、落合1佐と現地のクウェート人記者とのやり取りを紹介したい。
「日本は第2次世界大戦以後45年間、戦争をしていない筈(はず)だ。なぜ、先進諸国と同等の機雷掃海という最も難しい技術を持っているのか。それとも日本は隠れて戦争をしていたのか」というクウェート人記者の質問に対して、落合1佐は「昭和20(1945)年3月、瀬戸内海を中心として日本近海に約1万2000個の機雷が敷設されていた。日本海軍はその脅威に敢然と挑戦し、機雷掃海作業は終戦後も営々と続けられ、海自に引き継がれた。その後は、海自の掃海部隊が堅実に訓練を励行し、技量を磨いて来た努力の積み重ねがあったから、今回は無事に任務を終えることができた」とコメントしている。
落合1佐のコメントは、非常に重みのある内容だ。指揮官として、掃海部隊の全ての隊員に対する労(ねぎら)いの意味も込められていたように感じられる。
昨年成立した安保法制によって、自衛隊は新たに「駆け付け警護」「宿営地の共同防衛(防御)」が可能となった。この二つの任務が認められたことで、他国のPKO部隊との共同歩調(対処)が大幅に可能となったことは大きな前進と言える。派遣された隊員たちも、他国の隊員から白い目で見られることもなくなるだろう。
最後に一言。自衛隊のPKO派遣は、世界の人たちに、日本(日本人)のことを知ってもらう上で、大きく貢献していることも忘れてはならない。
(はまぐち・かずひさ)






