混迷の世相を生き抜く知恵
過去追わず将来憂えず
『菜根譚』に学ぶ心の処方箋
昨今の暖衣飽食の世相にあって、人々の関心は物質的・経済的な豊かさの追求に満足感を追い求め、その結果、生活は便利で効率的になり、多くの人々は欲望の達成感を味わっている気がしてならない。
しかし、生活が便利であることと、心が豊かであることとは、必ずしも一致することはなかなか難しいのではなかろうか。生活が便利になることによって人間にもともと備わっている生命力や精神力が次第に鈍磨し、やがて、感性までが狭小化し、感情や言葉が短絡化しつつあることを憂慮せずにはいられない。
今日ほど人々の欲求が肥大化した時はないのではなかろうか。その意味では、いま人々は欲望中心の自己本位になり、その欲望を制御する処方箋をも欠如しているのではないかと思われてならない。例えば、じっと待つこと・耐えること・留(とど)まること・譲ること・などの行為を、いま失いかけているのではないかと思う。この失いつつある心の処方箋を恢復(かいふく)するには、心の支えとなる杖(つえ)が必要である。
その「心の杖」が古典といわれる先達の書き残した書物ではないかと思う。
古くより“日本に言志四録あり、中国に菜根譚(さいこんたん)あり”といわれるように、『言志四録』は江戸時代の碩儒(せきじゅ)・佐藤一斎の人生修養の書であり、『菜根譚』は、中国明代の末頃(約400年前)に、賢者・洪自誠によって書かれた練心処世の要訣(ようけつ)を百練千磨の寸鉄で述べた優れた人生訓の書である。そこには、儒教・道教・仏教の三教の教えが融合されて建前と本音の生き方が述べられていることは実に興味深い。
さて、『菜根譚』という書名は、中国宋の時代の儒者・汪(おう)信民(しんみん)の言葉に“人よく菜根を咬(か)み得ば、則(すなわ)ち百事なすべし”とあるのに基づく。
菜根は堅くて筋が多いので、これをよく咬み得るのは物事の真の味を味わうことのできる人物であると同時に、菜根しか食べられない貧苦の生活に十分耐えることによって、はじめて人生万般の諸業を成し遂げることができるということの意味を寓(ぐう)したものである。
従って、人生の逆境や苦境の失意に遭遇したとき、この『菜根譚』を読むと、希望と勇気を、そして慰めを人々に与えてくれる心の杖の書物なのである。
わが国においては、江戸時代から今日に至るまで、禅僧はもとより、儒学者をはじめ政財界の指南役、さらに実に多くの先人たちがこの『菜根譚』を人生の拠(よ)り所として多くの足跡を残されたことは言うまでもない。
さて、具体的にその内容を述べてみよう。
“心地の上に風濤(ふうとう)なければ、在るに随(したが)いて、皆青山緑樹なり”(後集66)と。
即ち、「心に風が吹き荒れ波が起こるような動揺がなく、常に静かでいればいかなる処(ところ)に居ても、青山緑樹の中にいるような清浄な心になることができる」という。つまり、自分の「心の持ち方」で、どこにいても自由な心境を保つことができることを説いている。
また、“神(しん)酣(たけなわ)なれば、布被(ふひ)の窩中(かちゅう)にも、天地冲和(ちゅうわ)の気を得。味わい足れば、藜羹(れいこう)の飯後にも、人生の澹泊(たんぱく)の真を識(し)る”(後集88)と。
その意味するところは、「気力が充実していれば、たとえ布で作った粗末な夜具に寝るような質素な暮らしの中でも、天地の生気を十分に吸収して生き生きと生活することができるし、満足しておいしいと思うと、あかざのあつものを吸うような粗末な食事をしながらも、人生のあっさりとした真味を味わうことができる」というのである。ここで「精神が充実」していれば、どのような境遇に置かれても、人生を楽しく穏やかに過ごすことができるし、「心が充足」していれば、質素な食事でも満足することができるというのである。
いま改めて『菜根譚』の神髄とは何かと問われれば、大脳生理学者・時実利彦(東京大学教授)が、いみじくもその著『人間であること』で述べているように、何はともあれ人間の知恵を生かして『菜根譚』にある“風、疎竹(そちく)に来たる、風過ぎて竹は声を留めず。雁、寒潭(かんたん)を度(わた)る、雁去って潭(ふち)は影を留めず”(前集82)の心境をいつも持っていたいものである、というのである。
つまり、物事が過ぎ去ればそれとともに心はいつまでもその事に捉われずに、後々まで執着しないという心構えを説いている。
その心境たるや“至人の心を用うることは鏡の若(ごと)し。将(おく)らず迎えず、応じて蔵せず。故によく物に勝(た)えて傷(そこな)わず”(「荘子」・応帝王)
即ち「過去を追わず、将来を取り越し苦労せず、その時機に応じて適切に対処する」ということではなかろうか。
一度、事が起こればそれに適切かつ最善に対応し、事が終わればその事から放たれて、清々(すがすが)しい思いで過ごすという、実に融通性(フレキシビリティ)に富んだ心の処方箋がいま求められているのではないかと思う。
従って、昨今の混迷の世相を生き抜く知恵として次の言葉を常に心に留めて置きたいと思うのである。
“只(た)だ是(こ)れ前念(ぜんねん)滞らず、後念(ごねん)迎えず、ただ、現在の隨縁(ずいえん)を将(もっ)て打発(たはつ)し得去る”(後集82)
(ねもと・かずお)