幕末に見る「触媒」の重要性
蘭人教師に感銘受けた勝
勝との邂逅で龍馬の人間変容
勝海舟はわが国で最初に讃美歌訳をした人物であることをご存じだろうか。「ローフ・デン・ヘール」(主を誉(ほ)めよの意)というオランダ語讃美歌を訳している。彼はまた、1860年(万延元年)に咸臨丸の艦長としてアメリカに渡ったとき、遣米使節団とは別行動をしてサンフランシスコにとどまり、毎週のように日曜礼拝に出席していたことを後年回顧している。
同様に、幕末の主役の一人である坂本龍馬もまた、キリスト教の影響をみることができる。長年意を通じ合ってきた同じ土佐藩士の佐々木三四郎は、龍馬の言葉を次のように日記に認(したた)めている。「大政奉還の構想もしならずば、耶蘇教を以って人心を動かし、幕府を倒さん」と。龍馬が暗殺される3カ月前の67年(慶応3年)8月30日付の日記である。長崎を拠点にしていた龍馬は、隠れキリシタンが大勢存在することを何処(どこ)かで知っていたのである。
このように見てくると、幕末維新を生きた歴史の主人公たちは、キリスト教精神が陰に陽に織り交ぜられていたことが分かる。時代の深層に嗅覚鋭い司馬遼太郎は、『明治という国家』の中で次のような指摘をしている。「幕末のいわゆる志士のなかで、明治の革命後の青写真、国家の設計図をもった人は坂本龍馬だけだったろうと思いますが、それは勝という触媒によってできあがっていったものでしょう。さらに言えば、カッテンディーケが勝にとっての触媒だった」と述べている。本稿では、この3人の触媒の実相に触れてみたい。
まず、カッテンディーケだが、彼は勝が長崎海軍伝習所時代のオランダ人教師団団長で、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として知られている。後にオランダの海軍大臣や外務大臣を務めるほどの人物である。100名ほどの日本人伝習生の中で、オランダ語に堪能だったのは勝ひとりであったことから、オランダ人教師たちは、事あるごとに勝に相談したり話し合っていたことは想像に難くない。後年、カッテンディーケは回顧録の中で、「艦長役の勝氏はオランダ語をよく解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも、彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した」と記しているほどである。
そして、何よりも勝を驚かせたのは、毎日曜日に練習艦上で、あるいは出島商館の一室で捧(ささ)げられた礼拝の光景だったにちがいない。そこでは当然聖書も読まれ、オランダ改革派の讃美歌が歌われた。こうした彼らの真摯(しんし)な信仰生活を目の当たりにする機会を勝は持ち、カッテンディーケらの敬虔な姿、西洋的なものの見方、考え方に多くの感銘を受けたのではないだろうか。勝が、幕府をも朝廷をも超越した国家を構想しようとした根底には、おそらく国家を超える宗教的価値の自覚があったに違いないのである。
さて、咸臨丸での太平洋横断とアメリカ滞在の翌々年、一人の男が勝邸を訪ねる。尊王攘夷派の坂本龍馬である。62年(文久2年)10月のことである。勝は『氷川清話』の中で、この日の出来事を記している。「坂本龍馬。あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ち着いていてな、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ」。この時、どのようなやり取りがあったのかは知る由もないが、おそらくは、殺気漂う龍馬に向かって、「俺を切るなら切ってもいいから、まず、この地球儀をごらんなさい」などと語ったのではないだろうか。藩同士の争いがどうの、朝廷の行く末がどうのという狭視的な主張をする龍馬に対して、地球全体を俯瞰(ふかん)するような視点や歴史を超えた創造主的な視点を勝は語ったのではないだろうか。そして、この両者の邂逅(かいこう)によって、龍馬の目は大きく開け、一晩にして開国論者に転ずるのである。まさに、勝が触媒になって龍馬の人物変容をもたらしたのである。
さて、司馬は人間にとって重要なことは「触媒」であると語った。触媒とは何だろうか。それに触れた他のものが、まったく異なる物質に変化することを言うのだ。人間でいえば、ある人物との邂逅によって、まったく別ものの人物に生まれ変わることをいう。
考えてみると、我々は社会の制度改革、教育改革こそが人間の変容をもたらすと連綿と錯覚してきた。我々は毎日のように社長以下が横並びになって謝罪する光景をみて事態は解決したと連綿と錯覚してきた。しかし、うわべを糊塗(こと)するだけの社会からは、ひ弱な人間しか生まれないことを、我々は痛いほど目にしてきたのではないだろうか。そうではなく、カッテンディーケが勝の人間変容をもたらし、勝が龍馬の人間変容をもたらしたような触媒の生命力こそ、現代人にとって必要不可欠なものと思われてならないのである。
(かとう・たかし)