不戦の憲法で守れぬ平和
日本をまねた国はなし
国際情勢の悪化にどう対応
『騙されやすい日本人』(宮脇磊介著)は、冒頭「日本のマスメディアの問題点」について、「マスメディア出身者などによる著作が多くある中で、個別的な問題に対する厳しい批判、反省はあっても、日本のマスメディアのありようそのものが構造的に日本の危機に深刻に関わっているという指摘が見られないことである。……日本のジャーナリズムの機能不全が日本の危機の元凶である」と喝破している。次いで第1章では「危険にさらされる『情報弱者』日本」と題し、「ガリブル・ジャパニーズ」という言葉は、「ガリブルは騙(だま)されやすい、誰のいうことでも何でも信じてしまう」という軽蔑の言葉であり、1990年代後半から欧米の識者が内緒話に使うと、述べている。著者は警察庁出身、初代の内閣広報官に就任、平成7年より世界の組織犯罪等をテーマに評論・著述活動する米国通。
筆者は昨年8月本欄で、「国を危うくする反安保世論/日米同盟は日本の命綱/マスコミが法案阻止を煽動(せんどう)」と題し、憲法学者等が字面にこだわり、独善的平和思想によることを述べ、「鹿を逐(お)う猟師山を見ず」の諺(ことわざ)を示した。しかし、現憲法は、①平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われらの安全と生存を保持する②第9条の戦争の放棄は、戦争に正邪の分別がない③その第1項の自衛権行使の可否が不明瞭、特に重要な国防政策については空白である。憲法にこれらの成文上の欠陥があれば、やむを得ないかとも思う。さらに今年9月、「新聞は社会の木鐸(ぼくたく)たれ」と題し「平和ボケ」の世論に迎合する東京新聞に「戦争を学ばずに、平和を論ずるなかれ」と提言した。
9月20日付の朝日新聞「天声人語」は「『戦争法廃止』『武器輸出反対』。きのうの夕方、国会前にプラカードが並んだ。1年前、怒号のなか成立した安全保障関連法に断じて、納得しない人々が集まった」と、反対デモの状況を述べ、参加者の意見を羅列し、「思えば、日本ではデモや集会に対する若い世代の拒否感は強かった。シールズはそこに風穴を開けた。『デモなんて行ける時に行ける人が行けばいい』。……しなやかな政治参加の仕方を上の世代にも体感させてくれた」と、デモ参加を奨励している。成人ともなれば、参加する前にその目的、結果等を確認すべきであろう。
10月2日付の東京新聞は、第1面に「戦える国に変質 言わねばならないこと」と副題を付け、「平和を取り次ぐ国に」と題する元朝日放送報道局次長、ジャーナリスト鈴木昭典氏の次のような要旨の論文を掲載している。
〈終戦の日、暮らしの中で、平和は絶対必要と痛感した。自分たちが不戦の憲法を持っている意味を考えるべきだが、実態は戦争国家に化けている。世界には核兵器が2万発あり、核戦争の怖さは否定できない、人を平気で殺すのが軍隊だ。日本がやるべきことは、戦争ができる国になることではなく、平和の「取り次ぎ国」であること、原爆を体験した国として、国連で大声で言わなくてはならない。平和で経済成長を実現するという答えを出した日本は、世界でものすごく手本になっている〉
「新安保法」反対運動支援のためとはいえ、集団安全保障や個別的、集団的自衛権の相違すら知らぬ反戦平和主義者のざれ言と言えようか。世界で、ものすごく手本になっているとは、真実なのか。日本に学び不戦に徹し、軍備廃止を決行した国があるだろうか。他国から侵略を受け、不戦では、隷従の平和に陥り、自由はない。また、1990年、湾岸戦争において、日本は多額の資金を提供したが、イラクの侵略に対抗する多国籍軍に参加せず、国連憲章に忠実でなく、米国等から「戦友ではない」と、非難された。日本が70年も平和に恵まれ、繁栄できたのは、米軍の抑止力、精強な自衛隊の存在および幸運のためである。
筆者は、緊迫する国際情勢を憂慮し、さらに悪化すれば、現憲法で有効な対応は不可能と思う。自主憲法の制定を急ぐべきだが、政治情勢はいまだ熟してはいない。安倍政権は侵略抑止のため「新安保法」を制定したのであり、それは「違憲」ではなく、高等裁判所も「解釈改憲」として合法と承認している。国際法を無視し、領域を拡大する中国、核戦略を推進する北朝鮮に対して、不戦の憲法で、独立と平和を守り得るのか。「平和を取り次ぐ」とはどういうことか、具体的に方策を明示すべきである。単に「国連で原爆廃絶を叫び、『不戦の国』という平和の旗をもっと生かしていくべきだ」と言えば、他国から「平和ボケ」かと軽蔑されよう。
敗戦後、連合軍占領下、荒廃した国土、飢餓寸前の国民を抱えた吉田茂総理は、「米国の保護を期待し、自衛権をも放棄し、経済復興を最優先」とされたのであろう。憲法公布2カ月後、翌新春に「新憲法 棚の達磨も赤面し」と揮豪(きごう)されたが、秘めた苦悩を懺悔(ざんげ)されたのであろう。また、第9条第2項冒頭の「前項の目的のため」を挿入されたいわゆる芦田修正は、不戦条約に基づき、独立国として自衛戦を除外すると解釈すべきであろう。憲法公布70周年、在天の両元総理は、自主憲法制定の遅延に悲憤慷慨(こうがい)されていよう。
(たけだ・ごろう)






