ノーベル文学賞に思う
選考者の好き嫌いで決定
過去に大騒動になった例も
今、思うと年代がはっきりしないのだが、井上靖氏のノーベル文学賞がさっぱり決まらない頃のことだったと思う。噂(うわさ)ばかりは高いのだが、私が得ていたニュースでは、この受賞はかなり厳しいものだったようだ。井上氏とはある集会の合間にたまたま顔を合わせたので、テーブルを挟んで雑談を交わした。この時、一般に書き遺(のこ)されたものは、文字として後世に残されるだろうが、音楽というのは音が消えてしまうので、どうしても記録に残すのは難しい。やはり書き物でないと後世の評価はだめのようだ、といったたわいもない話だったようだ。
だから楽譜があるのだと言われるのだが、楽譜を見ただけでは一般人には音は聞こえない。こんなつまらぬ話をしたことを、もう何十年もたってふと思い出したのは、2016年度のノーベル文学賞の発表があってからだった。それは詩なら文字が言葉(音)に変えてくれるのではないかという、たわいもない空想だった。これはもう何十年もの昔、十代の頃に思い浮かんだものだった。
それは芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という、一句だった。小学生の頃から芭蕉の詩が好きで、彼の書いた『奥の細道』を声を出して読んでいくと、自分も旅をしているようで、思いが一つの詩歌となって甦(よみがえ)ってくるようだった。まあ、たわいもない妄想だが、今回のノーベル文学賞の発表を聞いた時、ふと思い出したのだった。
以前、井上靖氏が言われたように、文章をいくら書き連ねても文字だけでこちらの感情や印象を表現することは難しい。では音ならどうか。これは文字以上に難しいだろう。音はすぐ消えてしまうからだ。なら、文字を読んで音に替えられないだろうか。その一つの手法が詩の文字を音声に替えることだろう。
毎年秋の10月に入ると、マスコミは興奮し、半狂乱の状態である。今年の日本人のノーベル文学賞の受賞者は誰かという予想である。マスコミはこれが商売だから、別にどういうことはないのだが、一般の市民もこの喧噪(けんそう)に巻き込まれていく。
科学の分野と違って文化や文学となると、その評価は至難の業である。評価の基準がないから、好きか嫌いかで決めるしかない。選考者が嫌いなら、何年たっても同じことだろう。
ではこれまでのノーベル賞のうち特に文学賞で、世間で何か問題か紛争になったことはなかっただろうか。たかが文学賞ぐらいで大騒動にまでなるなど想像もできないのだが、詳しく調べていくとまったくなかったわけではない。詳しい内部事情は不明であるが、スウェーデン・アカデミーのカール・D・アフ・ヴィルセンが絡んだものだった。ヴィルセンはスウェーデンの天才的な作家と言われたアウグスト・ストリンドベリが、よほど嫌いだったらしく、彼を絶対に受賞者と認めようとしなかった。わが国ではノーベル賞は、まさに天の神が与えるように信じている人がいるようだが、この間のことを知ると、もう正気の沙汰ではない。この二人は激しい批判の応酬を繰り返し、何と1884年から、両者が死に至る1912年まで、激論が続き、結局、ストリンドベリは受賞できなかった。
両者の性格や考え方の違いから、もう妥協などあり得なかったらしい。当時の世間の噂や評判では、ストリンドベリがイタリア人かスペイン人だったら、さっさと受賞していたろうという。こうなるともう相手の作品などどうでもよく、選考者の好き嫌いで決まってしまう。これは何も特別のことでない。われわれの周囲の賞でもだいたい同じようなことが演じられている。今年になって、突然、文字の世界から音楽の世界、歌手がノーベル文学賞を受賞するとなると、もうよく分からなくなってくる。
ここでは勝手に文字で書かれた詩を音に替えれば、立派な文学作品になるなどと書いたが、これまでの例からいけば、こんなことは通じない。ただ歴史の皮肉といえばよいのか、ヴィルセンという人物は、実は詩人だったという。ところがストリンドベリの詠んだ詩が大嫌いだったという。こうなるともう議論などにはならない。こういう例は何も文学関係だけでなく、科学者にも多い。嫌いな同業者の文献は断固として引用しない。引用例の多い研究者を優れた研究者とするのは、学問の世界では一番危険だと言われている。学者は嫉妬心が多い人種だからだ。
外野席にいる人間にとっては、ノーベル賞を誰が得ようが、やじ馬的な感覚からすると、まるっきり関係はないし、これに振り回される人たちには、きっと何か理由があるのだろう。受賞予想者の作品が、どっさり印刷されて売り出されるのを見ると、予想が外れたらどうなるのか、人ごとならず心配になってくる。
(かねこ・たみお)