新島襄と高山右近の生き様

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

死を賭して海外へ出航
命より価値あるもの見いだす

 幕末の鎖国令下にあって日本を密出航した人物がいる。新島襄である。また、それより前の江戸時代が緒に就いたころ、日本から国外追放された人物がいる。高山右近である。当時の厳しい封建社会から想像するに、日本から海外に出るということは、死を賭した一大決心であったに違いない。彼らが日本を離れる前後に書き残した文章に触れながら、胸奥に秘めた思いを味わいたい。

 まず、新島である。彼は、アメリカ到着後、まだ慣れない英文で「私はなぜ日本を脱国したのか(脱国の理由書)」をまとめ、江戸に暮らしていた頃の自己変容を回顧している。

 「ある日、友人がアメリカ合衆国の地図書『連邦志略』を貸してくれた。それはあるアメリカの宣教師が漢文で書いたもので、私はそれを密かに何度も読んだ。その本で大統領の選出、授業料無料の公立学校や救貧院、少年更生施設、工場などを建てることを知って、私は脳みそが頭からとろけ出そうになるほど驚嘆した」。あまりの国情や社会の姿の違いに、驚天動地した新島が目に浮かびそうである。

 新島の心を揺さぶったもう一つの理由は、友人の書斎で見つけた聖書の創世記にある。彼は、それを借りて夜こっそりと読む。こう記している。「私は、まず神のことが理解できた。すなわち神は天と地を分けたうえ、光を始めとして草木や鳥獣、魚などを次々と地上に創造された。神はご自身の姿に似た形に男を創り、そして彼の脇腹の骨を切り取って女を創られた。神は宇宙のすべてを創造した後で休まれたのだ。」この創造神に対する明確な信仰とその深い感動が、彼をしてアメリカに向かわせるのである。その後も、彼のアンビションに追い風が吹くように、潜伏していた函館でロシア人司祭ニコライと出会い、彼の計らいで多くの人々が密航に協力し、ついに元治元年(1864年)6月、新島は函館港からアメリカ船ベルリン号で出国を果たすのである。

 次に、高山右近である。彼は、秀吉のバテレン追放令により信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨て、前田利家に招かれて加賀で暮らしていた。やがて、家康によるキリシタン国外追放令が発せられると、家族とともに加賀を退去し、有力なキリシタンは長崎に集められる。そして、長崎から国外へ追放される直前に、右近は細川忠興に人生最後の手紙を書き送っている。忠興の妻は細川ガラシャで知られている人物である。

 「近日中に、出航いたすことになりました。お別れの徴(しるし)に、掛物を一軸謹呈いたします。どなたかにと思っていた気持ちだけのものでございます。『帰らじと思えばかねて梓弓 無き数にいる名をぞ留むる』と詠んで戦場に赴いた楠木正行は、戦死して天下に名を残しました。私はこれから南海に赴き、命を天に懸けて、名は流してしまいます。六十年間の苦労は何だったのでございましょうか。(後略)」

 慶長19年(1614年)11月、右近らの一行は長崎の波止場から国外追放される。すし詰めのジャンク船という劣悪な環境であったが、翌月12月にはマニラに到着している。ところが、スペイン総督フアン・デ・シルバらからの大歓迎とは裏腹に、右近は慣れない気候と病のために、40日後の翌年1月には息を引き取るのである。

 さて、この二人の人物の生き様から我々は何を教えられるだろうか。2点にまとめたい。

 一つは、自分のいのちを擲(なげう)っても、それ以上の価値あるものがあるという確信である。新島は密出航が発覚したならば死罪であり、右近も劣悪なジャンク船での出航は死と隣り合わせだったに違いない。生命中心主義で生きるのか、それ以上の価値を見いだせるのかという問いがこの国には横たわっている。ある憲法学者が戦後を振り返って語っている。「学校では、人間の力を超えたものや、それに対する畏敬の念などは教えられず、ただ生命の尊重ということだけが教えられます。ですから、自分の肉体、生命や自分の欲望を満たすためには、他人の命くらい抹殺しても構わないと思う子ども達が現れても決して不思議ではないでありましょう」。

 二つ目は、よき人間が備えている特性が両者には顕著なことである。新島が出航したのは21歳であるが、彼には子どものような純真さと情熱が漲(みなぎ)っている。時代が彼のような存在を要求したのであり、江戸という古い革袋から這い出て近代国家を形づくろうとしていた胎動期には、純真さと情熱で走り抜ける人物が必要だったのである。

 一方、64歳の右近には諦観(ていかん)を見いだすことができる。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があるが、戦国時代という常在戦場と死の日常化の風土の中で、武将として置かれた場所で咲きつつも、その根底には「仮の世」という自覚が右近にはあったように思う。

 今日、新島襄と高山右近という大きな幹に連なる豊かな枝を我々は見上げることができる。新島がアメリカに生きたことで、クラーク教頭が札幌農学校に赴任し、同志社教育という豊かな実が輝いている。右近が戦国期に信仰を貫き、マニラの地に生きたことで、日本のキリシタン信仰は地下鉱脈のように心燃やされ、スペイン・マンレーサ洞窟内聖イグナシオ聖堂には高山右近が尊敬の念をもって描かれているのである。

(かとう たかし)