都知事辞職騒動は教養破壊

NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之

久保田 信之日本人の心を忘れるな

本質見失うテレビと舛添氏

 今月の東京都知事選挙の引き金となった、4月以来、あらゆるメディアが連日連夜、激しく騒ぎ立てていた舛添要一前都知事に関する問題は、もはや過去の事件として人々の関心が薄れてしまったようだ。

 現代のメディアは、「報道の自由」を振りかざして恥部であろうが醜悪な部分であろうが、臆面もなく暴き立てる道具となった。特にテレビは、視聴者の心をいとも簡単に支配し、緻密な系統だった論理的思考を麻痺させている。

 騒ぐ心に打ち克って、感情を制御しながら「事柄の本質」を探し求めることこそ、人間の本質であるはずで、パスカルはこれを『考える葦』と評したことはあまりにも有名である。

 しかし、逆に現代の社会には、この「人間の本質」を失ってしまった『空虚な抜け殻』が、多数さ迷っているようだ。彼らは「面倒な理屈っぽい話は止めよう」と、深く考えもせずに、直感的に、安直に、粗雑に結論を出して一喜一憂し、その時その時に対応しているだけで精一杯なようだ。テレビをはじめIT育ちの日本人は、電車に乗りながら、歩きながら、液晶画面にのめりこんでいる。

 そこへ、どのチャンネルを開いてみても、舛添要一の顔が映しだされていたし、居丈高に自己主張と辻褄の合わない屁理屈を並べ立てている「セコイ舛添要一」が画面いっぱいに現れていた。

 「あの目つきは悪党の目だ」「ああは言うけどウソに決まっている」「すべてがごまかしだ」「身勝手な自己弁護を繰り返す」「彼は絶対に悪人よ!」と「舛添要一は絶対に嫌いだ」とか、「自己保全に汲々としたセコイやつ」などなど、多くの視聴者は直感的に結論付けてしまったのだ。

 ところが舛添要一の方は、「法に触れてはいない」「悪として糾弾されるような法的根拠はない」とばかり、当初は過剰なまでの自信を持っていた。彼の自信の裏には、自民党、公明党は、自分を見捨てるわけがない、との、これまた過剰なまでの自信をもっていたようだ。

 政治資金規正法のザルの網の目の通り方と保守層の支援の楯を使えば、「都議会議員をはじめ一般国民」を簡単に論破できると詭弁を重ねた。大学という狭い空間の中で41歳まで過ごした彼は、言葉を丁寧に使うことよりも、いかに手っ取り早く持論を相手に認めさせるか、の訓練を重ねてきたのだ。彼は確かに「違い」を論破する能力には長けていた。

 かつて、ワンフレーズで「歯切れ良く」己の主張を展開する彼に人気が集まったことも事実だ。己の輝かしいキャリアを過信したことも事実であろう。

 しかし、様々な要因から、彼は謙虚さを失い、「謙虚に、複眼的に」複雑な事象を観察し、分析するといった「研究者としての必須用件」を忘れてしまったようだ。

 研究者に限らず、日本の伝統文化を「教養」として心の根底に置く日本人であるならば、「相手の身になる」こと、「自他の合一」といった心情が、幼少時から培われているはずである。

 「一つの見方で大きく割り切ろうとするのは害が大きい。歴史的知恵や、割り切れないところに目を行き届かせないと危ない」と諭してくれたのは、舛添要一と同じ国際政治学者の高坂正堯であった。

 しかしながら、残念ながらテレビの世界ではもてはやされているのは、他を排除し軽視して、自分に有利な仮説をまず立てておいて、その方向にのみ議論を展開していく「直線的な思考」の持ち主なのだ。時間が制限された中で「話し言葉」を唯一の武器に、簡単明瞭に言い放つ輩が生息しているのがテレビという世界のようだ。

 学者・研究者には、幅広い教養を背景に持って、他の意見や見解を無視することなく、関わりあう様々な領域・要素に目配りをして、それらの論理展開を緻密に追跡するような手法が要求される。ここで言う「幅広い教養」とは、人類が、長い歴史の中で培ってきた根源的な知識・技術のことであって、それを背景にもつ教養人とは、豊かな、落ち着いた生活経験に身を置くことが必須であろう。

 国際政治に限らず、あらゆる社会事象を「強者・弱者」「勝者・敗者」あるいは「富者・貧者」と二分して一面だけを抽出する研究領域にあっては、多様なファクターから成り立っている、躍動的な現実の価値も意味も排除してしまいがちだ。

 手っ取り早く、歯切れ良く結論を提示する「自己主張」が持てはやされている現代の日本では、「一般国民の常識」とか「一般教養」という穏やかな、ゆとりのある「心の支え」が育つ余裕を失ってしまう。

 「日本の伝統文化」として万葉の時代から、言葉を神秘的な力の象徴と位置づけたからこそ「粗雑に、大胆に言葉に出して言い立てること」を『言挙げ』と称して忌み嫌った。日本人の心になっていた『八百万の神々信仰』があるから、日本人の心には多面的に物事を見る「複眼的思考」が形成されていたのだ。

 しかし残念ながら、最近の日本人の多くが、常識的な、正直な心とは裏腹な「法に違反していない」を唯一絶対な判断基準においた「自己主張」を、臆面もなく主張して恥じない。マスメディアの真の役割を真剣に考えて欲しいものだ。(敬称略)

(くぼた・のぶゆき)