目立つ民主主義の劣化現象

ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学法学部教授 ペマ・ギャルポ

翻弄される米大統領選

チベット社会やインドでも

 民主主義はいうまでもなく私たちが政治的、社会的に共同生活を営む秩序の中で、幸福を追求する最高の制度であると私は信じている。しかし、この制度はあくまでも人間が試行錯誤を重ね作り上げてきたものである以上、完全無欠ではない。現に民主主義という制度を政治的なものとしてその確立に多大な貢献をしたソクラテス自身、その多数決の原理によって自らの命をも奪われた。

 その反動で弟子のプラトンは「哲人政治」を提唱するに至った。また、民主主義的価値基準に基づき、祖国インドの独立を求め指導してきたガンディーは、「自ら律することの出来ない者は他によって律され、無秩序、無責任な言動は群集主義化してしまう」と忠告した。

 2016年3月は、私にとって民主主義制度の重要性と限界を痛感する幾つかの場面に直面することになった。その一つはアメリカ合衆国の大統領選挙である。アメリカは自ら民主主義制度を確立した国家として自負してきた。その理念を大切にし、多くの人々、国々の模範的な存在になったことは評価に値する。

 だが、近年のアメリカの大統領の地位は大金と過大な宣伝合戦、特に冷静かつ真剣な政策論争よりも、誹謗中傷の大合戦に時間とエネルギーを費やしているように見える。アメリカのメディアも政治の商業化に加担しているようで、もはや世界の模範になる資格は失いつつある。

 本来、民主主義制度においては、私たち有権者が慎重に候補者それぞれの政策、実行力、人物を評価し、私たちの共同体や国家の運営を託すのに値する候補者を選ぶことにある。だが、残念ながら現在の民主制度は、広告代理店や選挙を職業としている人々やロビイストたちが作り上げた人物像と世論に受ける誤魔化しの政策によって翻弄されている。

 また、アメリカの大統領選挙ほど世界的に影響はないものの、世界中が注目したのはチベット社会の首相選挙である。これは亡命先でダライ・ラマ法王が長年精魂を込めて確立したチベットの民主化による選挙制度下で亡命政府の政治的責任者を決める制度である。過去15年間の実験的なこの民主制度はそれなりに成功を収め、特に選挙とは無縁の中国共産党独裁政権の下で圧制に苦しんでいるチベットの人々に希望の灯火を与えた。

 だが、残念ながら今回の選挙はアメリカの真似事なのか、決選投票に残った2人の候補者の陣営が政策よりも中傷合戦を展開したため、この制度下で選ばれた首相で2期満期を無事に務めた初代の前首相は、この状況を憂え投票をボイコットした。幸いにしてダライ・ラマ法王が健在でおられるため、そのご加護でチベットの人々は結束しているが、今回の選挙はチベット人の団結と民主制度の強化に貢献することよりも、民主化社会としての未熟さを露呈することになった。

 決選投票で争っている現職の首相と前議長は、どちらが当選してもチベット社会をより結束させ、せっかく亡命先で確立した民主制度を健全なものにするために、知恵と勇気を持ってこの課題に臨んで欲しいと願っている。

 また、私は次の本の取材のため元中国人の石平氏とインドを訪れた。元中国人と元チベット人という奇妙な帰化日本人による取材結果はいずれ本の形にする予定であるが、ここインドでも私は民主主義の弱点の一つに直面した。世界最大の民主主義国家を誇るインドは確かに大きく躍進しているが、その一方、自由と民主主義によって古来のお釈迦様の国、ヨガと精神性という静寂なイメージを一変させるような苛立たしい社会に成り下がっているように感じた。

 本来、インドは多様性と寛容性を誇りにしている国であり、十人十色の社会であることを特質としていた。今回、私が特に気掛かりなのは、あるテレビ番組の司会者が自ら偏見と自己主張を丸出しにし、アジテーター的な役割の振る舞いをしていることや、論客たちも本来のインド人のように冷静かつ理論的に述べるよりも、相手の発言を遮ってけんか腰に罵り、主張し合っていたことだ。話の内容も殆ど聞き取れない。だが、この番組は若者を中心に人気があるとのことで驚いた。

 日本を出発する時、マスコミは中学校の校長の訓示を部分的に取り上げ、問題化していた。女子学生に子供を生むことが一番重要であるというような内容であった。勿論、生むか生まないかは個人の問題であることに異論はない。だが、この校長の話の前後をきちんと読めば、一人の人間として教育者として今の時代を踏まえての提言であると同時に、教育者としての誠意を感じるのは私だけであろうか。

 民主主義において思想、表現の自由を保障されている社会は、自らのこれらの自由を濫用することなく責任を持って社会の秩序と発展に寄与すること、自らの主張を大切にすると同時に他人の意見に謙虚に耳を貸すこと、また共同社会においてはお互いに譲り合うことも民主主義そのものを守るため、大切ではないだろうか。民主制度をも含む自分の意見や見解だけを他に押し付けることは、民主主義の制度を殺すことにならないだろうか。