21世紀型の新しい戦争形態

小林 道憲哲学者 小林 道憲

テロと分散に悩む世界

不安に耐える精神的基盤を

 今世紀は、2001年9月11日に起きたアメリカ世界貿易センターへのイスラム過激派による自爆テロ事件から始まった。その後、この国際テロ事件は世界各地で続き、昨年末も、IS(「イスラム国」)によるフランスやアメリカへのテロ事件が起きたばかりである。

 テロは、21世紀型の新しい戦争の形態である。20世紀前半は総力戦の時代であったのに対し、20世紀後半は限定戦争やゲリラ戦の時代であった。しかし、この20世紀型の世界戦争や限定戦争だけを戦争と思っていると見誤る。たとえ、これらの20世紀型戦争が何らかの形で抑止され得たとしても、テロリズムという形で戦争は残るということを、今世紀の一連の事件は教えている。

 戦争の形態は常に変わり、表向きの戦争が抑止されれば、戦争は闇に潜る。テロリズムは、そういう闇に潜った戦争の一形態である。テロリズムは、人々に恐怖を与えることによって、心理的に不安を呼び起こし、直接的にも間接的にも世論を操作し、目的を達成しようとする。中東やアフリカなどに見られるイスラム過激派によるテロリズムは、そういう形を変えた戦争なのである。

 この点から言えば、21世紀の地球文明は、必ずしも統合の方向には向かわず、分裂の方向に向かう可能性もあることになる。トインビーも、文明は、その内部の社会層間の分裂・不和の拡大によって解体すると考えている。そして、その解体の一つの要因に、世界国家の周辺にあって、その恩恵を限定的にしか蒙らない外的プロレタリアートをあげ、これが文明を解体させていく働きをすると考えた。

 特に、中東やアフリカにおける紛争や衝突の遠い原因は、多くの場合、第1次大戦終結後、西欧列強間の思惑で線引きされた人為的な国境線が、必ずしも、中東やアフリカの宗教や言語や習慣などの地域性と一致していなかったことにある。国民国家は、多くの場合、多くの民族を一つの国民として強制的に統合するものでもあったから、それに抵抗する民族も後を絶たなかった。

 近代の国民国家は、多かれ少なかれ、多くの民族を統合して中央集権国家を形成する必要があったから、それに伴って、政治行政の一元化や言語や教育の統一をはからねばならなかった。これは、習慣や文化を異にする民族にとっては重大な問題であり、どうしても、民族と国家の間の矛盾にぶつからざるをえなかったのである。

 かくて、20世紀末以来、この地球上では民族主義の波が急速に復活し、各民族の自立の要求や宗教の復権の動きとともに、各地で多くの紛争や衝突が起き、民族間の殺戮さえ繰り返されている。なるほど、21世紀には、20世紀のような国民国家間の大戦争やイデオロギーに基づく長期戦はないかもしれない。しかし、民族や宗教に根差す紛争は21世紀も継続し、局地紛争やテロリズムは後を絶たないであろう。その意味では、21世紀は、なお、解体と分散の時代となろう。人類はそれほど簡単に共生できるものではない。

 文明というものが法によって守られる秩序を必要としているとすれば、21世紀の地球文明は必ずしもこの要件を満たしていない。民族や宗教に根差す相互不信からくる様々な闘争によって、21世紀の地球文明は揺さぶられ続けるであろう。この点から言えば、21世紀は、確かに、分散に向かっていると言わねばならない。

 もちろん、テロは国境を越えて起こるから、テロ撲滅のためには、国家間の情報共有と国際協力が必要であり、このテロとの戦いを通して、世界政治が統合に向かう可能性もないわけではない。しかし、民族や人種、文化や宗教に起因する紛争や衝突がなお継続するとすれば、21世紀も、戦争がなくなることはないであろう。なるほど、20世紀に第1次大戦や第2次大戦や冷戦を経験してきた人類は、もはや大戦争は起こしにくい。しかし、民族や宗教にかかわる限定戦争や局地紛争やテロは絶えることはないであろう。

 21世紀の世界には、一方では、新しい統合の方向に向かう傾向が見えると同時に、他方では、分散の方向に向かう傾向も見える。世界史の現在は、統合と分散、求心力と遠心力の相反する二つの力のせめぎ合いの中にあると言える。われわれは、外なる世界でも、内なる世界でも、統合と分散のせめぎ合いの中で苦悩している。統合に悩み、分散に迷っている。

 その意味では、21世紀は、曖昧で不透明な時代になるであろう。混沌とした不安定な時代になるであろう。そこに、21世紀の人類の不安がある。しかし、いつの時代も不安定で、不確実性を内に抱えている。とすれば、われわれは、その不安に耐えることのできる確固とした精神的基盤をもつ必要があるであろう。

(こばやし・みちのり)