伊犁事件調査した明治軍人

金子 民雄歴史家 金子 民雄

日本にない宗教民族闘争

「南京虐殺」の風説生む大陸

 世界には日本人によく理解できないものがあるようだ。その一つが民族紛争。狭い島国に単一民族が居住しているから、互いに争ったり殺し合いをする民族闘争というものが、理解できない。それにいま一つ宗教間の確執というのがあるが、これも日本では基本が仏教なので、血で血を洗うことは生じない。しかし、いま世界で起こっている大半は、ほとんど民族間同士での争いであり、もう解決の余地がない。

 今年(2015)の9月19日に、集団的自衛権の行使を容認するという安保関連法が国会で成立した。たまたま偶然のことだったが、この日、私は四国・愛媛県の小松町から、講演を依頼されていた。別に取り立てて言うほどの深刻な話ではなく、ただこの町出身の日野強(つとむ)という人について話して欲しいということだった。ただし、この人は軍人だった。

 この日野という人物は、いまから100年以上前の明治39(1906)年に、ときの陸軍参謀本部から、中国最奥地の新疆省の伊犁(イリ)に行くようにという命令を受けたのだった。小松町ではこの町出身の日野という人とイリについて、話を伺いたいということだった。たしかに、いまイリなどと言われたところで、知っている人は少ないであろう。

 では、当時の軍部がなぜこんな僻地に行けというのだろうか。このとき一般に公表された旅の目的は、ただの観光だったというが、実際は現地調査をしてくるようにということだった。ここは現在のシルクロードであるが、軍にはちゃんとした目的があった。

 こんなこと別にどうでもないことのようであるが、実は時代が変わったのである。わたしが日野の中央アジア紀行についての本を書いたのは、1973年のことだったが、一切が無視された。理由は軍人は悪の権化だからということだった。これが社会の風潮だったのである。安保関連法制定でその一角が崩れたのだ。彼の旅行目的は戦争と関係なく、あくまで歴史の真実を調べることだった。

 日本は正しい歴史認識を学べとことあるごとに中国、韓国から言われ、中でもとくに「南京大虐殺」というのがある。昭和12(1937)年、日本軍が南京占領中に30万人の中国人を殺害したといい、これが今年、ユネスコの世界記憶遺産に登録された。ユネスコがこの事実についてどのくらい調査したのか。第一、当時の南京に中国側が主張する30万人の人口はいず、殺された住民はせいぜい3万人足らずという説が有力である。

 この頃、雲南省とビルマ国境地域では、英米の援助で援蒋(蒋介石救援)ルートの開発が急がれていて、このとき南京などから集った数万人に及ぶ中国人が、道路建設工事に加わっていたと、現地での取材で聞いたことがある。当時中国に滞在していた日本人の犯罪を主張する欧米の神父たちは、仏教徒である日本人を嫌っていて援助する気などなかった。彼らの言動は信用できない。

 では、日本の軍部は明治の頃、一体なにが知りたかったのだろうか。多分、民族と宗教間の争いごとの真相だったろう。と同時にこの地域に浸透支配する中国とロシアの関わりだったろう。日本にいてはなにも分からない。いまでは事情は変わっているが、このときの日本の立場を軍部と外務省と置き換えてみれば、よく分かるだろう。

 明言はされていないが、日野が現地で調べるつもりでいたのは、1862年に起きた民族間の紛争である同治の大動乱と、続いて1871~81年に突発したイリ事件の詳しい真相を、できる限り克明に調査見聞することだったろう。中国の中央部に当たる陜西・甘粛さらに西端の新疆省に住むイスラム教徒は人口も多く、強大な勢力も持っていた。これが宗教と民族の絡んだ紛争になると、もうどちらかの民族を撲滅するところまでいくしかない。回教徒(イスラム教徒)を猫の子一匹まで生かさず皆殺しするのを「洗回」と呼ばれた。綺麗に洗い流してしまうというのである。

 わたしは1980年代末からざっと3度ほど、イリ地方を訪れる機会があった。南と北側のシルクロードを通り、旧ソ連領のカザフスタン、キルギスの国境を抜けるものだった。そして、一応イリ七城(九城)の遺跡もすべて見た。大半はいまも人が住まぬ廃墟で、ここが回族(イスラム教徒)と中国人(満漢族)の殺し合いの舞台だった。歴史を知るものにはなんとも心の痛むものだった。

 いつからか日本人は残酷で無慈悲な民族だという風説が広まり、そのよい例が慰安婦と南京大虐殺である。後者を今回ユネスコが世界記憶遺産に認定したというニュースを聞いた瞬間、ユネスコはまたろくに調査もせずに、中国側の一方的な申請書類だけで判断したものと思った。中国人は日本人と違って温情な民族と信じたのに違いない。イリ事件を見ればよい。日本人など彼らの足下にも及ばない。ユネスコなど早く解体したほうがすっきりする。

(かねこ・たみお)