敗戦後を問い直した江藤淳
米軍占領に疑問を提起
事実の違い左右問わず批判
今年は戦後70年のほかにも、いろいろな出来事の節目に当たっているために、安倍首相が戦後レジームの脱却として主導している、わが国の安全保障問題をはじめ、様々な議論がかまびすしい。
実は半世紀近く前に、アメリカ占領軍が作り上げた敗戦後の日本の体制について数々の疑問を提起し、わかったような顔をしている論壇の面々を厳しく批判した江藤淳という人がいたが、死去後まだ15年ほどなのに、もうほとんど忘れ去られている。まさに「去る者は日々に疎し」である。しかしながら、その往年の論客が、文藝春秋の雑誌編集者だった斎藤禎の新著『江藤淳の言い分』(書籍工房早山)によって、再評価されるかもしれない。
私が最初に江藤淳の名前を知ったのは、今から60年前、昭和30年に、「夏目漱石の性格形成に嫂の登世が大きくかかわっている」という、前代未聞の新説を読んだ時だった。世評は冷たかったと思うが、数少ない資料の中からこのような推量を組み立てた手練は巧みだった。江藤淳はまだ慶應義塾大学の学生だったが、この一作で注目される文芸評論家となった。そして60年安保闘争後、彼はアメリカの占領を問い直す論争を起こす。
その基本は、「無条件降伏は軍隊にのみ適用されるものであって、日本はポツダム宣言に明記されている通り、条件付き降伏だった」というものである。そして連合軍総司令部は、ポツダム宣言に基づいて「すべての検閲を廃止して言論の自由を確立する」と約束しながら、日本国民の私的な信書や電話を公然と検閲し、新聞雑誌の発行停止、没収等を大々的に、かつ長期に実施した。
例えば大東亜戦争とか大東亜共栄圏という名称を何度も使っただけで雑誌の編集者が沖縄で重労働の刑に服しているとひそかにささやかれた。また朝日新聞は占領行政の真実を報道したのにマッカーサー司令部が定めたプレス・コードに抵触するとして2日間の停刊処分を受け、以後会社存続のために米軍に最も忠実なメディアに変貌した。
GHQは日本政府と軍が隠していた虚偽を暴露すると称する「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」によって『真相箱』などの日本人洗脳番組を放送・新聞に連載させた。民主主義を説く有識者や言論人は当然これらの事実を知っていながら、「戦争に負けたのだから仕方がない」と諦め、「かつて日本軍も占領地で同じようなことをした」と公言する人もあった。江藤淳はそのようないい加減な態度を見逃すわけにはいかなかった。
マッカーサーはさらに、ハーグ陸戦条約の禁を犯して被占領国に憲法をおしつけたし、また東京裁判では原子爆弾などの大量破壊兵器の無差別使用やソ連の停戦発効後の侵攻・暴行と60万人以上の兵士のシベリア抑留等戦勝国側の違法行為は一切取り上げられなかった。
1962年から2年間のアメリカ留学の期間中に、彼はアメリカ国立公文書館やアメリカ議会図書館で日本占領にかかわる膨大な文書をコピーして持ち帰り、左右を問わず、少しでも事実と違う発言に対して、証拠を提示して舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判した。おかげで彼の周りはすべて敵地となった。敵対者たちはこの男を貶(おとし)めるために、家系でも、就学状況でも、家庭内暴力でも、否定的な噂を広めた。
だが、江藤淳は只者ではなかった。本業のかたわら、日本海軍の創設を描く歴史小説『海は甦える』を書いた。これは敗戦後の日本国民に自信と誇りを取り戻させた力作である。これがなかったら、のちの司馬遼太郎の『坂の上の雲』の成功もなかったかもしれない。
もう一つ、どうしても記録しておかなければならない翻訳『チャリング・クロス街84番地』がある。1962年に私がロンドンに赴任したころ、日本では形式的な「米穀通帳」のほかには食料の配給制度はなかった。ところが戦勝国のイギリスではまだ砂糖が配給だった。戦後のイギリスの物資窮乏時代にロンドンの古書店の数人の従業員とアメリカで古本を探している女性との交換書簡の、心温まる、いや、胸が熱くなる物語だ。これは彼の評論活動にとって直接関係はないが、この本を読むとその英語理解力と日本語表現力のすばらしさがわかる。
彼は、1998年11月に、学生時代から40年連れ添った愛妻慶子を癌で失った。長年の看病生活で疲労の極だったろう。本人も前立腺癌を患っていた。翌年7月21日、彼は古代ローマ人のように浴室で手首を剃刀で切って自死した。遺書――「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所存なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」。
江藤淳は川端康成のガス自殺の報を聞いた時、『枕草子』の一文が浮かんだとのことであるが、自ら命を絶つ際にも同じことを思ったであろうか。「ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬」。
(おおくら・ゆうのすけ)