始まるSTAP細胞事件の解明
文学作品となりうる謎
嚆矢となる須田桃子氏著書
去年12月26日、「STAP細胞はES細胞だった」との最終調査結果が報告された。STAP細胞に関わる論文の取り下げに続いて、細胞自体も存在しないことになった。小保方晴子元理研研究員は、この件に異議申し立てをしなかった。論文も細胞も存在しないことが最終的に確定し、「STAP細胞事件」はここに終息した。
事件は終わっても謎は残る。事件の終わりは、謎解明の始まりでもある。二つの問題点が残っている。①STAP細胞がES細胞だったとして、混入は意図的だったのか、ミスによるものだったのか。②小保方さんが事件の主役であることは間違いないが、果たして主役だけで事件は成り立ったのか。主役以外の周囲に、全く問題がなかったと言えるのかどうか。
年末、須田桃子著『捏造の科学者 STAP細胞事件』(文藝春秋)という本が刊行された。世界を騒がせたこの事件についてまとまって書かれた書物としては、これまでのところ唯一のものだ。記述は客観的で、自然科学に無知な私などにとっては、大いに参考になった。
①について言えば、理研の外部調査委員会最終報告は、ES細胞の混入は確認したものの、それが意図的だったか過失だったかについては判断を留保している。また、意図的だったとしても、誰が混入させたのかについても判断を下していない。捜査機関でもない委員会であってみればそれも仕方がないが、逆に言えば、故意の可能性を残している。素人から見ても、混入の回数からして、それほどたびたびミスが重なるだろうか、という疑問は残る。
意図的に混入させたとして、そんなことに何のメリットがあるか、という疑問は当然だ。が、今回のケースについてはともかく、自分にとって明らかに不利だと承知の上で何かを実行してしまうことは、稀ではあるがありうる。損得を超えた行動をすることはありうるのだ。文学作品にはその種の人間がしばしば登場する。
『捏造の科学者 STAP細胞事件』を読んで気付いたのは、小保方氏の研究者としての個性の問題だ。研究内容は別としても、研究方法には大きな問題があった。記録の管理が不十分だったことは、周知のように、研究ノートのずさんさに示されている。
加えて議論が苦手、ということがある。先輩や同僚の意見に対して怒り出してしまって、コミュニケーションを保てないことが多々あったという。他人の意見に耳を傾けることなく、独自に研究を進めてしまう。著名な科学雑誌「ネイチャー」に一旦はボツになった時も、査読者の具体的な指摘を軽視して、本気で検討しようとはしなかった。これも、「独自性」を表している。研究を進めて行く上で、この種の個性が好ましい方向に働く可能性は低い。
②について言えば、須田氏の本に紹介されている若山照彦山梨大学教授の証言が印象的だ。研究ノートの書き方については、博士課程の大学院生までに指導することはあるが、小保方氏のようなハーバード大学の博士研究員に対して、指導教官でもない自分が「ノートを見せなさい」などと言えるはずがない、と須田氏の取材に対して若山氏は回答している。
「デタラメな研究が行われているはずはない」という思い込みは、亡くなった笹井芳樹氏にもあっただろう。他人を寄せ付けない独特の個性で研究を進めた小保方氏。彼女の研究者としての経歴からして、信頼に値すると判断してしまった周囲。
事件の主役と重要な脇役の間のコミュニケーションが基本的なところで成立していないまま、背中を背け合うような形で実験が行われ、論文が提出された。今回の不幸な事件は、周囲の忠告を軽視しつづけた主役の個性と、そこを見抜けなかった錚錚(そうそう)たる科学者たちの間の大きなズレによってはじまり、終わった。
昔、新幹線のホームで、転勤する社員を胴上げしたところ、落下して死亡するという事件があった。胴上げしている社員たちは、「だれかが受けとめてくれるだろう」と思って支えなかった。一人の大人を支えるだけの人間がそろわなかったために、悲惨な事故となった。同じことがSTAP細胞事件にもあてはまる。
元々は早稲田大学に提出された博士論文の不備だった。この段階で気付いていれば、事件はなかったはずだ。結果から見て、「なぜ気付かなかったのか?」とも思う一方、仕方がなかった、それが普通だったのでは、という思いも禁じえない。
須田氏の本によると、STAP細胞の原型はバカンティ・ハーバード大学教授らが2001年に発表した論文にはじまるという。全6ページのこの論文は、「論文というよりファンタジー」と酷評された。使われているデータには、無断引用されたものも含まれていた。このあたりにも、STAP細胞事件の根がありそうだ。
全てを知るのは、もはや小保方氏本人しかいない。話を聞きたいところだが、事件が終わった以上、当人が話をする義務はない。
話題になることはなかったが、去年1月のSTAP細胞発表時、小保方研究室で研究に従事していた5、6人の若い女性研究者たちは、事情を知っていたのかいなかったのか。この事件についてどういう反応を示したのか、知りたいところだ。
(きくた・ひとし)