「息を引き取る」なにがしか

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

死と生の背後の精神性

人間を壮大な視点で捉えよ

 「息を引き取る」という言葉がある。人が亡くなる際によく使われる言い方だが、考えてみると不思議で意味深い日本語ではないだろうか。このことの背景にある精神性について少し考えてみたい。

 「息を引き取る」の「引き取る」とは、たとえば「荷物を引き取る」「身寄りのない人を引き取る」のように、誰かが何かを引き取るときに使われるのが一般的である。仮に、「息を引き取る」に「子」を付け足して、「息子を引き取る」というと状況がよりはっきりしてくる。誰かが息子を引き取るのである。決して、息子自身が自分を引き取るのではないことだけは確かである。

 では、「息を引き取る」に本題を移してみたい。一体、これから死にゆく本人が、息を引き取るのであろうか。本人が息を引き取ったら、生き返ることになる。引き取るためには、「誰か」という主語が必要なのである。つまり、誰か、なにがしかのお方が「息」を引き取り、どこかへ連れて行くと考える方が自然である。このように、人が亡くなる際に、我々が自然に口にする「息を引き取る」という言葉の根底には、死にゆく者自身の視点ではなく、死にゆく者に預けられていた「息」を、なにがしかのお方が引き取るという光景が見えてくる。このような日本語の精神世界が、英語表現にも通底しているというのが非常に興味深い。「息を引き取る」は英語でexpire(エクスパイア)というが、スパイア(息、精神)をex(外に出す)という意味合いであり、「息を引き取る」と同じような精神性が流れている。

 翻って考えるに、「息」とは何であろうか。有名な旧約聖書の創造物語では、このように語られている。「その後、神である主は、土地のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった」この「いのちの息」は、ヘブル語原語では「ルアーハ」という言葉が使われている。このルアーハは旧約聖書の至るところで用いられており、息、風、霊などを含有している。つまり「息」とは呼吸を見てもわかるように風のようであり、また、「息」がその者の生死に直結するという意味で霊に結びついている。このことから、先の「息を引き取る」は「霊を引き取る」と同義語だと捉えることができる。旧約聖書の別の記述にも「ちりはもとにあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」とあり、この文面にも「息」と「霊」の共有性を見て取ることができる。つまり、死に際して「息」や「霊」を引き取るということは、死にゆく者自身の人間的な計画とか都合などということではなく、それを引き取るお方の専権事項であるのだという明確な思想が、日本語表現の「息を引き取る」という中に込められており、それはユダヤ・キリスト教思想に通底しているというのは意味深いことではないだろうか。

 同様のことは、日本人の精神性を見事に表している大和言葉にも共通している。大和言葉では、「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」はすべて同じ語根から派生している。いずれも、「い」で始まっている。「いきる」の古語は「いく」であるが、これは息(いき)と同根である。また、「いのち」の「い」は、「生く」「息」と同じである。そのほかにも、「い」は「忌(い)む(慎んで穢(けが)れを避けること)」「斎(いつ)く(神などに仕えること)」など、厳かな意味を持つとされる。そのような尊厳ある「いのち」が、草木や人間に宿っていると、古代から連綿と日本人は考えてきたのである。

 ところで、「息を引き取る」ということが、これだけ尊厳のある、そして深い宗教性を帯びたものであるにも関わらず、我々が一般的に終末期医療の現場で目に触れる人々とは、医師や看護師、或いは、ケアマネージャーである。患者の身体的苦痛の緩和であれば医師や看護師で十分かもしれない。本人や家族の生活支援であればケアマネージャーが適任かもしれない。しかし、生死が深い宗教性を帯びているとすると、そのことに応える人が不在なのである。在宅での緩和医療に長年携わり、2000人の患者を看取った東北地方のある医師は、患者が死と向き合う現場に宗教者がいないことに疑問を呈して、こう語っている。

 「本来は、宗教者が患者の亡くなる前に来て、宗教的ケアをやってあげられたら、ご家族も亡くなられる方も、もっと穏やかだったにちがいないということに沢山直面した」。この医師の悔恨の念の行間に、「息を引き取る」に立ち現われている真の主人公を忘れた現代医療の貧困さを見るのである。

 最後に、20年ほど前に文部省が発行した解説書に書かれていた味わい深い「生命」理解を紹介したい。「…このことは漢字の成り立ちを見ると、“生”は草の生え出る形に由来し、“命”は“口”と“令”から成り、神や上からの指示・啓示を受けることを意味する。したがって、生命は、生物学的な生命であるとともに、神に祈り神から与え命じられたもの(天命)でもあり、両者はもとは分離していなかったであろう」。

 ここには、「いのち」というものを単に生物学的な生命に止めずに、神に祈り神から与え命じられた天命と捉えた精神が息づいている。天命の中で生き、息をし、やがて故郷に還っていく存在。そのような壮大な視点から人間を捉えていきたいものである。

(かとう・たかし)