亡命ユダヤ系音楽家の楽園
戦前日本で学芸に貢献
露・東欧の隔離政策逃れる
1930年代から40年代、日本在住で名のある外国人音楽家の多くが東欧出身のユダヤ系だった。NHK交響楽団の前身に常任指揮者として招かれたヨーゼフ・ローゼンストック(1895~1985)はポーランド出まれ。美貌の天才少女ヴァイオリニスト、諏訪根自子の育ての親、アレクサンダー・モギレフスキー(1885~1953)はロシア出身。東京音楽学校(芸大音楽学部の前身)にピアノ担当の外人教師として招かれ、日本クラシック音楽の発展に寄与したレオニード・クロイツァー(1884~1953)もロシア出身。クロイツァーと同じく世界水準のピアニストで、同じく東京音楽学校に招かれたレオ・シロタ(1885~1965)はウクライナ出身といった具合だ。
彼らは皆、19世紀末生まれの同世代だがこれには訳がある。この頃から20世紀初頭にかけて、ロシア帝国領内の東欧ユダヤ社会には未曽有の音楽ブームが高まりをみせ、後に天才ピアニスト、ヴァイオリニストとなるユダヤの神童たちが続々と出現し始めていたからだ。ブームの背景にはロシア帝国が定めた苛酷な隔離居住区からの脱出手段を探し求めるユダヤ人側の強い希求が存在した。そこに押し込められたユダヤ人たちは政府の特別許可証がなければ、一生を不毛なロシアの辺境地帯で過ごさなければならなかったのだ。
ただ、芸術的天分に恵まれたひと握りの神童たちだけが隔離居住区を出て芸術アカデミーのある大都会で優れた教師に師事し、研鑽(けんさん)を積む特権を与えられたのだ。さらに両親や家族にも神童と一緒に華やかな大都会へ移り住み、そこで暮らす特別許可証が与えられたのだ。かくして幼い子を持つユダヤ家庭では乏しい家計をやり繰りし、競って子供たちに楽器を習わせたのだ。音楽的天分を発揮する子供がいることは家族の希望となったのだ。
上述のシロタも地元キエフの音楽学校を優等で卒業するとロシア音楽教育の最高峰、サンクト・ペテルブルク音楽院への進学を許されたのだった。帝政ロシア崩壊後、神童たちは混乱を逃れ、音楽の都ウィーンやベルリンに活動の場を移し、そこで国際的名声を築いたのだ。
この間、独墺国籍を取得した者も少なくない。しかし、ヒトラーの台頭により、自由で寛容なワイマール時代が終わりを迎えると、地位と活動の場を奪われてしまうのだ。
それではなぜ多くのユダヤ系音楽家たちは日本を亡命先に選んだのだろうか。第一は反ユダヤ主義の不在である。自由と民主主義を標榜するアメリカにおいてさえ大学教員任用に際してはかなり激しいユダヤ人排斥がなされていたのに対し、寛容と実利を重んじる日本の政府と高等教育機関は優れたユダヤ系芸術家や学者にポストを与えることで日本の学芸への貢献を期待したのである。1936年、駐日ドイツ大使館は東京音楽学校からのユダヤ系教師追放を求め、日本の文部省に要求を送り続けた。けれど乗杉嘉壽校長は一笑に付し、この内政干渉ともいえる妄言を退けたのだ。
日本政府の対ユダヤ人政策は1938年末の五相(ごしょう)会議で正式に決定されるが、その中で日本に住むユダヤ人は他の外国人同様、公正に扱うことが決められたのだ。また入国を求めるユダヤ系亡命者については「積極的招致は行わぬが、特別な技術を保持し、日本の国益にかなう者はこの限りに非ず」という原則が確認されたのである。亡命音楽家たちもそれに該当したわけである。
第二の理由は亡命ユダヤ系のネットワークの存在である。音楽家たちは永住の前にいわば下見として、日本に演奏旅行に訪れ、その結果として日本が気に入り、永住を決意するケースが多かったのだ。その際、彼らに訪日公演のチャンスを与えた興行師がロシア出身で上海在住のユダヤ系だった点は重要である。
当時、日本において欧米系音楽家による演奏会興行権を一手に握っていたこの人物は同胞の音楽家に優先的に活動機会を与え続けていたふしがあるのだ。ナチスドイツにしてみれば、この興行師による「日本洋楽市場のユダヤ化」は看過できぬ事態であったので、彼の活動を規制するよう、日本政府に申し出を行ったが全くとりあってもらえなかった。これらの音楽家は日本国民の人気が高く、排斥は日本の国体になじまないという理由からだ。
亡命者のうち、ドイツ国籍を本国政府から剥脱された者たちは太平洋戦争末期、日本警察の監視のもと、抑留生活を余儀なくされたが、この辛い体験の後にも非難がましい発言は殆ど聞かれなかった。例えばクロイツァーはどこの国の歴史でも普通にあることで、当時、日本で暮らした全ての人々が甘受せねばならぬ労苦の一部だったと語っている。上記4人のうち、クロイツァーとモギレフスキーは日本に骨を埋めた。
日本音楽界の発展に寄与することを晩年の生き甲斐としたのだ。また、ローゼンストックは戦後、日米の間を往復しながら両国の音楽文化に寄与し、昭和天皇より勲三等瑞宝章を下賜されたのだ。
(さとう・ただゆき)