日本海海戦を称賛した国々

太田 正利評論家 太田 正利

大陸国の大洋進出阻む

東南アジア諸国との友好を

 先月桑港(サンフランシスコ)条約に言及したが、今回は明治時代に帰りたい。西欧勢力に脅かされながらも、わが国は年来蓄積されてきた叡智によりこれを克服し、徳川の封建社会から世界に向けて明治の時代を切り開いた。しかしながら、華夷秩序から離脱せず旧態依然たる朝鮮半島をめぐって起こった明治27~28年の日清戦争の勝利の結果には、「朝鮮が完全な独立国たることの確認」、「遼東半島、台湾、澎湖島の割譲」等々があった(ただ、遼東半島については、露仏独による「三国干渉」の結果、日本が苦杯を舐めたのは有名で、日本は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)―越王勾践(こうせん)の故事による―」を心に誓い、日露戦勝の後、遼東半島の一部は日本の租借地として日本が統治することとなった)。

 当時ロシアは、清国との盟約その他列国に対する累次の宣言にも拘わらず、満州を併呑せんとしていた。その場合には韓国の保全は確保し得ず、極東の平和も望み得なくなる(対露宣戦の詔勅による)として、日露戦争が勃発した。当時日本は日英同盟によりロシアを牽制(けんせい)していたが、英国はあまりにも遠かった。

 この戦争について、欧州諸国は日本に勝機はないと考える向きが多く、筆者の記憶が正しければ、さむらいが大きな熊に襲われるが如き漫画すら見られた。また、黒い軍服で日本刀で斬り掛かる日本軍人、これを応援する英米人、傷ついたロシア軍人の後押しをする独仏人の漫画。一方、伊藤博文枢密院議長は「……露軍が大挙九州海岸に来襲することとなれば、自分も卒伍に列し、武器をとって奮闘する……」とすら述べていた。

 遼陽の会戦、南山の戦闘、二〇三高地を廻る死闘、港湾閉塞(へいそく)を含む旅順攻撃、そして奉天の大会戦(明治38年3月10日)、日本陸軍はほとほと疲れ切っていた。ロシア側も同様だが、ここに、ロシアははるばる欧州からバルチック艦隊を派遣することになった。その頃までにロシアの極東海軍は旅順港を失い、殆ど用を成さなくなっていた。しかしながら、万一欧州からの海軍の廻航が成功すれば、戦局を一気に挽回されることも可能だった。

 しかしながら、ロシア艦隊の廻航は英国の援助が期待されないほか、遠距離の上、補給の問題、航海の疲れ等々、遠征艦隊の弱みもあった。

 来航するバルチック艦隊。これを迎え撃つ東郷連合艦隊。5月27日から28日にかけてだった。既に多く語られているので詳細は省くが、まさに掲げられた「Z」旗――皇国の興廃この一戦にあり――この海戦は連合艦隊の圧勝というべく、38隻の露艦隊中、撃沈19、捕獲5、逃走中の沈没・自爆・他国抑留10、逃走成功は2隻のみとされ、ロジェストウェンスキー将軍は捕虜、ネボカトフ将軍は降伏。日本側の損失は水雷艇3隻のみだった。

 この海戦はトラファルガー沖海戦(1805年)におけるネルソン提督の大勝利に比肩されるものとされており、各国から称賛の声が上がった。この海戦が日露戦争の帰趨(きすう)を決し、日露講和条約は、米国の斡旋で9月5日ポーツマスにおいて締結された。この戦争の最大の意義は、当時見下されていた有色人種、かつ、非キリスト教徒が白色人種のキリスト教徒に勝利した点だった。トルコ皇帝は「ロシア人に対する日本人の勝利――われわれの勝利!」とし、インド人、中国の孫文などをも感激させた。大陸国ロシアから日本海を越えて太平洋に進出する機会を奪ったことにもあった。

 現代的意味においては、九州以南の南西諸島、沖縄島等を含む琉球諸島、宮古列島、八重山列島、尖閣列島等々で西からこのラインを越して大洋に進出するのを阻んでいる一線を成すようなものだ。

 現今、西の大陸国中国が、前記の線の間隙を縫って太平洋に軍事進出せんとする意図あらば、これに如何に対処すべきか。平和的行動なら特に問題はないが、確か2007年5月だったか、中国軍某幹部がアメリカ海軍のキーティング太平洋軍司令官に対し、ハワイを起点として太平洋を米・中によって東西に分割統治しては如何と提案した由だった。かかる提案が受け容れられる筈はなかったが、中国側の意図はよく読み取れる。

 欧州の現状を見るに、前大戦後「欧州石炭鉄鋼共同体(6箇国)」から、EU(欧州連合)28箇国と拡大して現在に至っている。

 アジアにおいては、前大戦中、欧米諸国(特に米英仏)による植民地支配から東アジア、東南アジアを解放し、ここに新たな新秩序たる「大東亜共栄圏」を建設しようというわが国による構想があり、1943年には、日本が独立させた共栄圏内の各国首脳が東京において大東亜会議を開催し「大東亜共同宣言」が採択された。その根本思想は大東亜の各国家、各民族が各々其の処を得しめ、同義に基づく共存共栄の秩序を確立せんとするにあった。

 かかる構想は日本の敗戦により実現しなかったが、その精神は生きている。なにも、日本がすべて牛耳ろうというわけではないが、筆者自身がアジア諸国に在勤した経験にてらすも日本の評価は高いようだ。先ず近隣の東南アジア諸国との友好を深め、自信をもって平和のために尽力しようではないか。

(おおた・まさとし)