日露戦争明石工作とブンド
ポーランドで後方攪乱
ユダヤ人の革命勢力を支援
日露開戦の8カ月前、1903年6月8日、日本陸軍参謀本部の会議の席上、慎重論に傾く大山巌参謀総長に抗して、少壮参謀たちはロシアの内憂を理由に戦勝の可能性を強く主張した。ロシア国内には社会主義を奉じる革命派が跳梁している。とりわけブンドと称する遊堕民が一大勢力をなしている。だから日露開戦の後、ロシア側の挙国一致は難しいという内容だ。
当時、ユダヤ人を表す漢字表記としては猶太人という当て字が一般に用いられていた。
しかし、国際金融市場で威勢をふるうエリートユダヤ人とはとても同族とは思えぬ革命派労働民衆に属するユダヤ人集団が確かに存在しているという新たな情報に接した日本の参謀たちは、エリートユダヤ人を含む猶太人と区別するために、あえてこの当て字を用いたのであろう。その際、否定的意味あいを含む遊堕(ゆうだ)という当て字を選んだ理由は明白である。当時の社会通念では下層民衆が生活に窮するのは本人の遊興、自堕落が原因とみなされていたからである。
参謀たちが注目したブンドとは何か。それは1897年、ロシア領ポーランドで結成された「ユダヤ人労働者総同盟」を指すイディッシュ語の省略形に他ならない。ブンドは1898年、レーニンやプレハーノフ等ロシアの社会主義者と握手して、ロシア社会民主党(後のボリシェヴィキ)の結党にも参加した。
けれど、それに吸収されず、ユダヤ人だけの民族組織の維持にあえてこだわった理由は東欧で吹き荒れるユダヤ人迫害から身を守る自衛組織が必要だったからだ。従って、ブンドとはユダヤ人労働者の武装蜂起による社会主義革命を目指す、戦闘的労働組合であると同時に、ユダヤ民族の自衛団体でもあったわけだ。
その全員数は3万5000人。当時のロシア領で活動する革命勢力の中では最大級の組織であった。1903年中頃以後の1年間で、ブンドは実に429回の政治集会、45回の示威行進、41回のストライキを実施する程の力量を有していた。工場の操業を停止させてのストライキはロシアの戦時生産体制に少なからぬ動揺を与えたはずだ。工場地帯でブンドが指導したゼネストは戦闘的で、鎮圧に乗り出したロシア軍との間で、しばしば激しい市街戦が繰り広げられた程だ。そうしたひとつ、ロシア領ポーランドの主要工業都市ウッヂでは1905年6月18日から25日の1週間、最も少ない見積もりでも79人のユダヤ人労働者がロシア軍と衝突し、死亡している。このように戦闘的なブンドを味方に抱き込み、ロシア国内で後方攪乱(かくらん)工作を行えという日本陸軍参謀たちの計画こそ明石工作の思想的出発点だったのだ。
参謀本部の命を受けて現地でブンドと直接接触したのが在スウェーデン日本公使館付陸軍武官の明石元二郎大佐であった。明石は1904年7月末、準備工作として、ブンドの在外幹部とスイスでおち会い、秘密会談を行っている。同年8月18日、明石は盟友であるフィンランド人の独立運動家シリアクスを連絡係として用い、自身の意向をブンドの在外幹部ゼマー・コペルソン(1869~1932)に伝えている。それは近日中に革命勢力の代表会議を招集すべきこと。日露戦争を中止に追い込むための、テロ行為を含むあらゆる手段を計画立案すること。必要とあらば、充分な武器供与を明石側が行うというものであった。
ポーランド生まれのユダヤ人、コペルソンは当時、レーニンが所属したロシア社会民主党の組織化にも尽力した革命の古強者だ。明石の功績はブンドを含む様々な左翼革命勢力間の横の連絡に力を尽くし、彼らを動員しての後方攪乱工作により、ロシア側の戦意に動揺を与えた点にある。05年、ロシアの属領ポーランドではブンドやその他革命諸勢力による反政府運動が激化。これを鎮圧するためにロシア政府は信頼できるロシア人部隊のポーランドへの増派を実施せねばならなかった。
満州で最も必要とされたロシアの精鋭師団20万人が革命の伝播(でんぱ)を阻止するためにポーランドで釘付けにされた意味は大きい。05年3月、奉天大会戦で勝利を収めたものの、大きな痛手を負った日本軍に対して、これら無傷の精鋭が決戦を挑み来った場合、日本軍にはもはや、これを迎え撃つ余力はなかったからである。ブンドに代表されるポーランドの革命諸勢力による反乱がなければ、ポーツマス講和による日本の勝利は覚束なかったといえよう。
日露戦争で日本が闘った主戦場は満州の荒野、欧米の金融市場だけではなかった。明石工作の支援下、ブンドがポーランドの工業地帯で繰り広げた反乱も、今ひとつの知られざる日本の主戦場だったのだ。
明治陸軍の少壮参謀たち、そして駐在武官明石元二郎の深慮遠謀に想いを馳せる時、改めて彼らの炯眼(けいがん)に驚嘆せざるを得ない。
(さとう・ただゆき)