講和条約の発効を想起して

太田 正利評論家 太田 正利

新生「日本国」誕生の日

名誉ある独立国の道標とせよ

 わが国には多くの記念日があり、学校も休みなので楽しみにしている向きも多い。ただ、4月29日は旧「天長節」(昭和天皇誕生日、現・昭和の日)で祝日だが、28日は何の日か。何%の人々がその日の認識があるのか。だが、忘れもしない。まさに、新生「日本国」の誕生日で、戦争体験(と言っても「銃後の護り」に就いただけ!)を有する最後の年代を代表する筆者にとっても忘れ難い日なのだ。

 前大戦(わが国での正式名称は「大東亜戦争」)では、長い期間にわたる支那事変の後昭和16年12月8日の真珠湾攻撃による日本海軍の大戦果、マレー沖海戦、シンガポール占領と初期の戦勝が続いたが、翌4月18日には日本初空襲があり、その後日本が占領した諸島をめぐる死闘が続き、昭和20年8月15日「終戦」(「敗戦」とは言わなかった)となった。東京は殆ど焼け野原となったほか、広島・長崎の原爆は言わずもがな、日本各地も大変な被害を被った。その後マッカーサー司令官率いる米軍の管理下に置かれた被占領国日本は各種の変革を経験する。先ず、War-guilt Information Programにより戦前の日本精神たたきから始まり、憲法改正(帝国憲法改正の形こそ採っているが実質的には新憲法)、学制改革(旧制高等学校の廃止、六・三・三・四制の採用等)、旧きものすべて悪、日本帝国の残滓残すべからず、特に軍事的なものの否定、戦前日本は「悪の象徴」等々……天皇家の歴史的伝統を無視して、「万世一系の天皇」から「日本国の象徴、国民統合の象徴」に変わった。

 確かに、米国による占領体験は酷いものではなく、日本の一般大衆はマッカーサー元帥の帰国の際には名残を惜しんだ程だ。しかし、この間、日本精神が被った被害には莫大なものがあった。学制改革により、子供達は日本の良いところを学ぶ機会を失った。日本の国柄は如何なるものだったのか。戦前の子供達が何の抵抗もなく受け入れてきた日本神話も一時は日本帝国主義の権化だとして排斥された。占領軍のお眼鏡に適う新教科書が編集される迄、教科書の多くの部分に墨を塗らされた。その結果、生徒の目には「テンテルオオカミ」なる神様が現れたり、古き日本は『悪』として印象づけられることとなった。前大戦を法的に終結させたのは桑港(サンフランシスコ)平和条約(1951年9月)で、これが発効したのがまさに52年4月28日。まさに新日本国の誕生だった。それから62年経った。

 この日は、かかる長い占領下から脱却したという重要な意義を有する日なのに、「祝日」として位置付けられなかったのは何故か。今ではもう遅いとは思うが、この日の意義を再考してみたいではないか。残念ながら、占領下の日本と同じく、「日本は悪い国、悪いことをした」という占領軍から押しつけられた観念を固守する向きがあるのは如何がなるものか。幸いにして日本古来の美風を珍重する気風は戻ってきてはいる。しかしながら、政治論議をみていると、いわゆる「自虐史観」は依然として健全である。我々はそろそろかかる史観から脱却すべきである。確かに本紙、産経、読売等これに成功した向きが大勢となってきているのは慶賀すべきで、ますますかかる傾向を推し進めたい。大学教育の現場から身を退(ひ)いて相当の年月を経た筆者は、学校教育の現状が如何なる状態にあるやは寡聞にして知らない。ただ、前述のとおり、「戦後」60有余年を経た現在、まわりの国に言われるままに、自己の歴史認識に確たるものを持たないと、ますます他人から侮られることになり、ひいては強力な自己主張ができぬ国に成り下がってしまう。幸いにして安倍総理という歴史認識の強固な政府の首長を有することとなったわが国の現状に鑑み、乾坤一擲(けんこんいってき)、国の名誉を護るという精神で邁進(まいしん)することが肝要であろう。

 つらつら想うに、わが国は建国以来、数多の外寇(がいこう)に直面してきた。天智2年(663年)の白村江の戦いでは、日・百済連合軍は惨敗し、その後わが国は、対馬・筑紫に防人(さきもり)と烽(のろし)を置いて水城を築いたり、都を近江大津に移すなど、外敵に備えざるを得なくなった。文永、弘安の役(「元寇」)はいわずもがな、幕末になると米・露を含む西欧諸国、その後の清国と外からの脅威は高まる。明治以後の動きはよく知られているところだが、この辺で、わが国が辿(たど)ってきた道を振り返り、今後の名誉ある独立国としての道標とすべきである。たまたま再来した4月28日、ここにその日の意義を十分咀嚼(そしゃく)して今後の「みちしるべ」とすべきであろう。

 今まで知ってか知らずか、この日の意義を忘却の彼方に置き忘れてきたようだ。これは筆者も同然。確かに、当時筆者は大学の最終学年に在学中で、翌年の米国のブラウン大学院入学準備に勤(いそ)しんでいた時代のように記憶している。学生の身分で、まだ国際政治の現実に想いを致した記憶があまりないが、語学に対しては深い造詣を有していたので、今から考えれば、外交問題にもある程度の関心を持っていたのは間違いない。

 いずれにせよ、ここに、日本国の再生を目指して頑張ってきた多くの諸先輩の志を継ぐとともに、祖国のために尽くすことをここに読者諸兄とともに誓おうではないか。<(おおた・まさとし)