集団的自衛権と憲法変遷理論
一定期間改憲を先取り
自衛隊で「解釈」は「変遷」
筆者のドイツでの指導教授、故フォン・デア・ハイテ男爵は、1951年のマインツ大学教授就任記念講演で「暗黙の憲法変遷と憲法解釈」をテーマとした。氏によれば、一国の憲法は具体的歴史的状況から生じ、この状況によって条件付けられ、この状況と共に変化し、規範の中に表明される一国の法的状態である。
さらに人間の性格と同様に、憲法も二つの傾向を持つ。それは持続的傾向と変化の傾向である。憲法理論によって憲法の持続的傾向が強調される場合には、その改正の難しさによって他の諸法律と区別されることにより法的意味における憲法の本質的特徴とされている。日本国憲法では両院定数の3分の2かつ国民投票。ドイツでは、ラントによる連邦の編成、立法に際する諸ラントの原則的協働、基本法第1条及び第20条に規定される諸原則に抵触する基本法改正は許されない。
他方、全ての憲法に内在する変化の傾向は不断に表明されている。憲法の変化的性格と状況依存性は、憲法が実体規範の総体である限り本質的なものである。全ての実定法は、憲法を含めて、その本性からして、変化し、柔軟で、状況によって条件付けられ、従って恒常的変遷下に置かれている。
共同体における権力の配分を目的とする規範(憲法)は暗黙下に事情変更の原則(clausula rebus sic stantibus)の留保を前提としている。この原則は、全ての憲法の不可欠な構成要素で、如何なる憲法規定によっても排除され得ない。事情変更の原則の要請は三つの方法で実行される。
第一に、事情変更の要請は、憲法に規定される方法で改正権限のある機関が憲法規範を改正、廃止もしくは補充する方法である。第二に、事情変更の要請は、革命もしくはクーデターによって現行憲法の廃止もしくは新憲法の制定によって実現される。第三に事情変更の要請は、憲法の変遷(Verfassungs wandel)によって実現される。憲法の変遷とは、憲法の文面の変更無しに、実定憲法規範の意味を本質的に変更することである。
憲法改正と憲法変遷と憲法違反は明確に区別する必要がある。憲法改正は、憲法自体に規定されている方法で憲法条文を変えること、憲法違反は、憲法の文面と意味に対する意識的違反行為であり、これに対し憲法変遷は、違法意識が存在せず、本来的憲法条文の文面の意味の漸次的変更である。憲法変遷は、進化の一種として正式の憲法改正と革命(あるいはクーデター)の中間に位置付けられ、憲法改正を先取りし、少なくとも一定期間革命を阻止する。
憲法変遷は、表現手段として憲法解釈を利用する。憲法解釈は、まず実現された憲法変遷を確認し、憲法変遷に正式の道を開き、変遷に実行のための手段を与え、憲法変遷において決定的役割を果たす。つまり憲法変遷は、解釈の下で、そして解釈を通して実現される。解釈利用の古典的例証は、アメリカ憲法史である。この拡大解釈は最も賢明にアメリカ憲法の若さを保ち続けた。
集団的自衛権は正に憲法変遷の典型的用例と見做(みな)される。周知の如く、日本国憲法は、占領下の異常な状態の下で、占領軍による検閲を含む様々な超憲法的制約の中で制定された。従って、日本国憲法が日本国民の憲法制定権力の行使とは見做され得ない。むしろ、占領下の日本政府および議会と占領軍間に成立した「協約憲法」と見做すことが妥当と思われる。
その際に重要な事実は、日本が再びアメリカの敵として台頭しないための配慮と日本が現実にアメリカの占領下にあった事実である。この二つの現実が憲法に反映されたのである。従って、占領軍が作成した日本国憲法草案の中には、日本の再軍備は想定外事項であった。ところが「芦田修正」の時点で、日本の再軍備に対する予備的配慮がいわゆる「文民条項」の挿入命令の中に実現した。
憲法制定後の憲法学界の主流(多数派)の理論は、日本の「非武装中立」であった。国際法理論の共通認識である「非武装と中立が論理的に相容れない両概念である事実」は全く無視された。この意味で憲法学の主流は、思考力麻痺状態にあり、論理的思考に欠け、思考の自由を喪失している。
その後1950年6月朝鮮戦争が勃発し、アメリカ占領軍の勧告(命令)により警察予備隊が設立され、これが保安隊そして自衛隊に発展した。この時点で、憲法の「非武装」(解釈)は、決定的に「変遷」した。1952年の対日講和条約でも、日米安保条約でも、日本が国連憲章第51条に規定される個別的・集団的自衛権を有している旨が規定されたにも拘らず、内閣法制局の解釈は、集団的自衛権の適用を『憲法違反』と見做し、自民党もこの解釈を良しとして、第2次安倍政権に至る。
本来ならば、日本の独立(1952年)の時点で、正式に、日本が再軍備している事実、そして同時に世界の全ての国が主権国家の自然権(固有の権利)として認める「個別的・集団的自衛権」も適用可能である旨宣言すべきだった。世界の常識を遅まきながらも日本の常識とすることに躊躇(ちゅうちょ)してはならない。集団的自衛権の適用も法的に可能とする常識の備わった国家としての再出発こそが焦眉の急なのだ。
(こばやし・ひろあき)