沖縄県民投票の棄権票を切り捨て読売・産経を批判する毎日論説委員長

◆投票率に一切触れず

 沖縄・辺野古埋め立ての是非を問う沖縄県民投票について毎日7日付の「社説を読み解く」が俎上(そじょう)に載せていた。論者は古賀攻・論説委員長。同欄は同日付で終了とあるから委員長自ら締めを担ったようだ。それだけに毎日の姿勢がよく表れていた。

 県民投票では7割が辺野古移設に反対した。これを古賀氏は「県民意思の表出があった以上、中央政府は何らかのアクションを起こすのが民主政治の定石のはずだが、安倍政権は投票を『なかったこと』にしているように見える」と批判し、返す刀で読売と産経を指弾する。

 「毎日新聞や朝日新聞、多くの地方紙は投票結果を受けて政府に埋め立て中止を求めたが、読売、産経両紙は県民投票に否定的な評価を貫いた。その論調の違いは、安倍政権と沖縄を分かつ溝と同じように深い」

 読産が否定的な評価を貫くのは当然の話だ。外交・安保は国の専権事項で、投票には法的拘束力がなく、おまけに移設の本来の目的である普天間飛行場の危険性除去の是非は問わなかった。投票自体に意味がないのだ。

 これに対して朝・毎それに「多くの地方紙」(共同通信の“配信モノ社説”か)は県民投票を神聖にして侵すべからず、とした。だから両者の論調の溝は深いどころか、最初から接地点がない。

 古賀氏は投票結果を「県民意思の表出」と言うが、これこそ疑問だ。読・産それに本紙が指摘するのは投票率がほぼ半数で、棄権と二分するほど低調だったことだ。「反対」は確かに7割だが、全有権者の割合で見ると4割に満たなかった(本紙9日付「沖縄時評」を参照されたい)。

 ところが、古賀氏は投票率について一言も触れずに「県民意思の表出」と言う。それを言うなら、「棄権」という表出にも着目すべきだ。それを切り捨てて「反対7割」だけを強調するのは県民意思をないがしろにするものだ。

◆軍事問題に思考停止

 「中央政府は何らかのアクションを起こすのが民主政治の定石」とするが、普天間飛行場の危険性除去と県民投票の低調な現実を見れば、移設工事の推進こそ「アクション」にふさわしいではないか。

 古賀氏は県民投票が「ポピュリズム(大衆迎合主義)の温床」になり得ることは認めるが、「毎日は全県実施が決まった時点の社説(1月27日)で沖縄に集中する基地問題を『本土の国民が「我がこと」と捉える』重要性を指摘した」とし、本土の国民が応じなかったのでポピュリズム批判を免れるとしている。これも奇妙な論理だ。

 そもそも基地問題は安全保障の全体像から導き出されるべきだ。古賀氏は「辺野古の問題を軍事合理性だけで論じるべきではない」として軍事問題に思考停止し、安全保障を「我がこと」とするのを放棄してしまっている。

 最近の話をすれば、2回目の米朝首脳会談の“決裂”と、経済が変調してもお構いなしの中国の軍事増強など、わが国を取り巻く安全保障環境は一段と厳しくなっている。このことは米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題と無縁でないはずだ。

 中国の全人代開幕について読売は6日付1面トップで「中国軍事費7・5%増」、国際面で「新兵器増強」と報じ、社説でも言及した。産経も同様だ。ところが、毎日は5日付夕刊でサブ扱い、6日付社説「対米配慮が目立った報告」では、中国の軍拡について「際限なく見える軍事力拡大に歯止めをかけなければ、信頼は得られまい」と、これっきりである。

◆勇気ある毎日記者も

 中国はもはや信頼を得られていない。それに対してわが国はどうするのか。ここが問題のはずだ。本土の国民に「我がこと」と言う前に毎日自身が「我がこと」と考えれば、反辺野古のような情緒的かつポピュリズム的論調など張れるはずがない。むろん、これは朝日にも当てはまる。

 もっとも毎日には「我がこと」と考える記者もいる。秋山真一・政治部記者だ。2月6日付「記者の目」で「敵基地報復認めるか議論を」との“勇気”ある提言をしている。こういう声を毎日論説陣は県民投票の棄権票を切り捨てたように抹殺するのだろうか。とまれ毎日の読・産批判に軍配を上げることはできない。

(増 記代司)