辺野古地元住民の意向を無視し「政治操作のデマゴギー」を流す沖縄紙

◆地元が米軍基地誘致

 沖縄の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設の移設先は、言わずと知れた名護市辺野古だ。その辺野古に米海兵隊基地「キャンプ・シュワブ」がある。だから、辺野古問題の核心は同基地を拡充し普天間の受け皿とするところにある。ところが、左派勢力や沖縄紙は「新基地反対」と、ことさら「新」を強調し、まるでキャンプ・シュワブが存在していないかのように論じる。典型的な印象操作だ。

 このキャンプ・シュワブをめぐって本紙21日付「沖縄のページ」にスクープ記事が載った。「キャンプ・シュワブは地元が誘致 仲介役の元米陸軍中佐の手記で明らかに 再三の陳情に米軍応じる」と、基地建設の経緯を詳報した。

 これも反辺野古派の主張とはまったく違っている。彼らは米軍基地について「米軍が銃剣とブルドーザーで土地を奪って建設した」「沖縄は自ら提供したことはない」(翁長雄志前知事)と言い続けている。だが、キャンプ・シュワブはそうでなく、地元が誘致して造られたものだ。

 元中佐とはサンキ浄次氏。日系ハワイ人で1956年当時、琉球列島米国民政府民政官(最高責任者)のレムニッツァー陸軍中将の副官兼通訳官だった。本紙記事がスクープといっても、彼の手記は既に知られている。95年に発刊された社団法人北米養秀同窓会15周年記念誌『北米養秀』に「The Birth of a Marine Base」と題して収められている。本紙はその原文が沖縄県公文書館に保管されていたことを明らかにした。そこがスクープだ。

◆再三にわたった陳情

 手記は米国民政府のエドワード・フライマス渉外局長が沖縄在任中に収集した沖縄関連の約3200点の資料「フライマス・コレクション」の中の一つで、公文書館の仲本和彦氏が米国のフライマス氏を訪ねて譲り受け、2003年から同館で公開されているという。それを本紙は発掘したわけだ。

 手記の内容は本紙を読んでもらいたい。キャンプ・シュワブが地元の誘致で造られた経緯についてはネットで「久志村」を検索すれば、フリー百科事典「ウィキペディア」で知れる。ちなみに久志村とは辺野古とその周辺の旧村のことで、1970年に名護町などと合併し現在の名護市となった。ウィキペディアにはこうある(抜粋)。

 <1956年(昭和31年)久志村村長(当時)の比嘉敬浩が「村興しのために米軍基地を誘致したい」と発言したが、当時沖縄県内では米軍接収軍用地の地代支払い方法をめぐって反基地運動が高揚していたため、米国民政府は基地誘致の陳情に即答を避けた。しかし村の再三にわたる陳情と、そのたびに久志村議会議員の署名を携えてきたため、レムニッツァー民政官は応諾、在沖米四軍全員に照会したところ、陸海軍はこれ以上の基地増設は不要と答え、残った海兵隊が訓練場増設の必要性からこの誘致に応じた>

◆事実を歪める宮城氏

 この地元と米軍の橋渡し役を果たしたのがサンキ氏だった。ところが、反基地派はそれが気に入らない。沖縄タイムスは昨年12月、手記を「政治操作のデマゴギー」と断じる劇作家の宮城康博氏の小論を文化面に2回にわたって掲載した(同14、15日付「キャンプ・シュワブ『誘致説』再考・上下)。

 宮城氏は「沖縄の統治者である米軍による、住民の人権や財産権を無視した『銃剣とブルドーザー』での強制接収を恐れ、交渉によるできる限り権利を守ろうとする行為を『誘致』と呼ぶのは明らかに誤りだ」としている。

 だが、こうした見方は事実を歪(ゆが)め、久志村の指導者たちを貶(おとし)めるものだ。本紙にあるように元琉球政府行政府(知事に相当)の当間重剛主席は回想録(69年発行)で、兵舎不足に困った海兵隊に対し村長らは喜んで土地契約を結んだと評価している。

 現・辺野古区長の嘉陽宗克氏も「この地域は初めからキャンプ・シュワブに馴染(なじ)んでおり、区民の一部として扱われている」と語り、普天間飛行場の移設について容認している。

 沖縄紙はこうした地元の意向を無視し、「辺野古反対は沖縄県民の総意」と言い募る。これこそ「政治操作のデマゴギー」だ。本紙スクープはこのことも浮き彫りにした。

(増 記代司)