空想的観念論の「社説余滴」、中国報道を反省する歴史決議が必要な朝日
習批判で各紙足並み
中国共産党が中央委員会総会で「歴史決議」を採択した直後に中国を訪ねた。と言っても先週の話ではなく40年前の1981年のことだ。「百万ドルの夜景」とうたわれた香港から空路で上海に入った。空港は原っぱも同然で、陽(ひ)が落ちると暗闇に包まれた。中国国際旅行社が手配した小型バスは、自転車の波を掻(か)き分けるようにクラクションを鳴らし続けて市内に入った。
当時の「歴史決議」は、中国を大混乱に陥れた文化大革命を指弾し、その一方で建国の父・毛沢東については個人崇拝を排除して「功績が第一、誤りが第二」とし、●小平時代を開いた。人々は人民服に身を包んでいたが、公園ではそれを脱ぎ、色とりどりの服装でくつろいでいた。希望の曙光(しょこう)が見える感がした。そんな記憶が蘇(よみがえ)る。
今回の歴史決議はどうやら真逆のようだ。習近平総書記を「新時代」の指導者と位置付け、個人崇拝がにおい立つと各紙は酷評している。社説は「際限なき権威強化を懸念する」(13日付読売)、「個人崇拝強化への道具か」(同・産経)、「国際協調乱す独善は困る」(14日付毎日)と、習近平批判で足並みを揃(そろ)えた。
朝日は歴史決議が採択された当日の12日付にいち早く「歴史を語る権力の礼賛」との社説を掲げ、こう言った。
「中国は一党支配ながらも、権力集中の弊害を避ける制度を選んできた。とりわけ甚大な破壊と犠牲を生んだ文化大革命の反省があったとされるが、いまの指導部はそうした教訓と先人の努力をどう考えているのか。ひたすら現体制の維持を図るための歴史観は、中国にとっても国際社会にとっても危ういことを認識すべきである」
親中の朝日をもってしても容認し難い。そんな内容で異論はない。だが、文革当時、紅衛兵を絶賛する記事を書き続けてきたのが朝日だ。その反省の弁は未(いま)だ聞いたことがない。日中をめぐる朝日の歴史観はどうなのか、と混ぜっ返したくなる。
元中国総局長の哀歌
14日付の社説欄には「古谷浩一」の署名入りで「『日中友好』が聞こえない」と題する「社説余滴」が載った。余滴は「社説とは少し違った見方や考え方を示した記事」とされる、言わば「個説」だ。
読んでみると、これがまた恐れ入った情緒論で、古谷氏の「哀歌」だった。「『日中友好』という言葉を聞かなくなって久しい。いまの中国を見ればそんな気にならない、というのも分かるが、妙にさみしく感じてしまう。来年は国交正常化50周年でもあるのに」と嘆じている。
古谷氏は「1990年入社。…上海、北京、瀋陽の特派員などを経て2013年~18年に中国総局長。18年から国際担当の論説委員」(朝日ネット版)とある。12日付社説も氏が書いたのだろう。
「余滴」は初任地の群馬で知り合った中国人農業研修生との交流を回顧し、研修生の語る「故郷の貧しさや中国政治の怖さ」は「遠い世界の話だった」と吐露し、「(お互いに)中国は必ず豊かになる。民主化も進む。歴史問題は和解し、両国の人々がわだかまりなく自由に行き来できる幸せな日が来る」といった「楽観的な未来図」を共有していたとし、「互いの勝手な希望がぎゅっと凝縮されていたのが日中友好という言葉だったように感じる」と振り返る。
その上で友好の響きが力を失った原因は、「共存共栄に向け、人々がともに共感できる将来へのビジョン」が見えてこないからだとしている。
ビジョン共感は無理
こういうのを空想的観念論と呼ぶ。中国は自由と民主主義を否定する共産主義の国だ。40年前の歴史決議後には胡耀邦や趙紫陽による民主化の兆しもあったが、1989年の天安門事件で潰(つぶ)された。ウイグル人やチベット人らは民族抹殺の危機にさらされ、香港の輝きも失せた。そんな共産中国と「共感できる将来へのビジョン」はあり得ない話だ。朝日には中国報道を反省する歴史決議が必要だ。
(増 記代司)
●=登におおざと