まよなか氏が稚拙な主張、琉球新報に売国的論文
《 沖 縄 時 評 》
◆尖閣諸島めぐり歴史捏造
沖縄県石垣市の尖閣諸島について地元紙、琉球新報と沖縄タイムスは同諸島が日本の領土であることをあまり言わない。それどころか、否定論者の主張をしばしば掲載する。
その典型的な例が琉球新報1月31日付文化面に載った「アイヌ民族と連帯するウルマの会代表」と名乗るフォークシンガー「まよなか しんや」氏の小論である。
「『固有』から『共生』へ」とのタイトルで、北方4島・尖閣諸島・竹島は日本の「固有の領土」ではなく、隣国との国境なき「共生の島」であったのを、近代日本国家の建設過程で「国土」化したと論じている。
おそらく本土の中央紙には掲載されることのない事実誤認だらけの稚拙な主張である。例えば、北方4島は一度たりとも「共生」していた事実はない。
ロシアと結んだ下田条約(1855年)では日露の境を千島列島の得撫(ウルップ)島と北方4島の択捉島としており、4島をロシアも日本の固有の領土と認めていた。東方政策でロシアが千島列島に進出した際、当地のアイヌと交戦しており、「共生の島」は、まよなか氏の空想の産物である。
また竹島は江戸初期の1635年、幕府が鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止したとき、同島への渡海を禁じておらず、国内と認識されていた。それ以降も鳥取米子藩の商人や島根県隠岐島民が行き交っており、ここにも「共生」は空想である。
また近代日本国家の建設過程で「国土」化したとするが、それは国際法に基づいて領土と明示したのであって、いずれも奪い取ったものではない。
◆中国を利する空想論
このように小論は歴史を捻(ね)じ曲げている。それだけでなく、こうも言う。
「日本が隣国と平和共存し、基地も原発もない平和な世界を願うならば、ヒロシマ・ナガサキそしてフクシマを体験した国として、アジア太平洋の人々へ謝罪し、偏狭な日本ナショナリズムである『日本固有の領土』という領有権主張を見直し、日米安保条約を破棄すべきである」
空想を並べ立て、その挙げ句の果てに日米安保条約を破棄せよと唱えているのだ。これこそ中国に操られた領有権放棄論と言うほかあるまい。日本人を使った世論工作は中国のお家芸だ。こんなアジテーターを沖縄の地元紙は文化面で重宝がって使っていることに驚かされる。
さて、尖閣諸島である。中国が尖閣諸島の領有権を初めて公式に表明したのは1971年のことだ。国連アジア極東経済委員会が同諸島周辺に豊富な地下資源が埋蔵されていると公表したのを受けて領有権を唱えたのである。
その中で、明・清の皇帝から琉球に派遣された冊封使の『使琉球録』や明代の海防の範囲を定めた『籌海図編(ちょうかいずへん)』に尖閣諸島が中国領土と記されていると主張している。
その“種本”として中国が持ち出したのが、驚いたことに日本の歴史学者のものだった。すなわち井上清氏の『「尖閣」列島-釣魚諸島の史的解明』(現代評論社・1972年)である。
井上清氏(1913~2001年)は共産主義を信奉する極左・歴史学者として名高い。京都大学の教授時代に文化大革命や全共闘を賛美し、中核派などの過激派集会でアジ演説を行ったことで知られる。
中国が尖閣諸島の領有を主張すると、それに呼応し72年に前掲書を著した。その後も中国のお先棒を担ぎ続け、97年に中国社会科学院から名誉博士号を授与されている。
◆極左・井上氏の「罪」
この井上清氏の主張(すなわち中国の主張)はまさに歴史捏造である。そのことを歴史研究家の原田禹雄氏が自著『尖閣諸島 冊封琉球史録を読む』(榕樹書林・2006年)で詳述している。
原田氏は明清時代の中国側文献である『使琉球録』全15巻を翻訳し、訳注も加えた『琉球と中国』(歴史文化ライブラリー153・吉川弘文館)を著しており、それら文献をもとに井上清氏の捏造をことごとく明らかにした。
例えば――。明代ならば、中国固有の領土は『大明一統志』の中にきちんと記されるが、尖閣諸島に『大明一統志』の巻89以下の「外夷」を含めても、まったく記載がない。つまり明代において尖閣諸島は中国の領土ではなかった。
また明の世宗時代に初めて冊封使が琉球に派遣され、最初の『使琉球録』(1534年)に尖閣諸島の名称が登場するが、それは琉球への航海の標識島としてであって、領土としてではない。
その最初の渡航は福州から那覇に向かっている。冊封使をはじめ明の人々には航海の経験がまったくなく、航路や標識島を知るために琉球から航海に習熟した「看針通事」(いわゆる水先案内人)を派遣してもらい、中国語のできる琉球の針路係に従って航海し、標識島(尖閣諸島など)の名称を琉球側から聞き取った。そのため琉球側が教示した「魚釣島」が中国語で「釣魚島」となったのである。
井上清氏は明代の胡宗憲による『籌海図編』(1561年)に尖閣諸島が書かれており、これをもって中国領土とも主張している。
だが、同書は倭寇に備えて作られた書であり、明の領土を示したものではない。当時、中国領ではない台湾(書では「鶏籠山」)も書かれており、知られる島々の名称を書き込んだものにすぎない。
ちなみに台湾は明代には「小琉球」とも呼ばれ、外国として扱われていた。明末にオランダ人が台湾南部を占拠して東印度会社が支配し、台湾北部はスペイン人が占拠した。
明の遺臣の鄭成功は台湾に逃れ、オランダ人を退去させて3代に渡って台湾を拠点に対清攻撃を行ったが、1683年に清が台湾を平定した。それで『清史稿』で初めて台湾を中国領としている。
こうした明朝時代の文献でも明らかなように尖閣諸島が中国領だったことは一度もないのである。
わが国は「無主の地」であった尖閣諸島を国際法上認められた領域取得の権原(権利の発生する原因)である「先占の原則」に基づいて沖縄県に編入した(1895年)。
それ以降、福岡県の古賀辰四郎氏が鰹加工場を設けるなどして、わが国が実効支配してきたのである。1970年代まで清も中華民国、中華人民共和国も一度として日本の領有権を否定したことも、自らの領有権を主張したこともなかった。それが71年に突如として領有権を主張したのである。こうした事実からもその不当性は明らかだろう。
◆中国共産党への忠誠
それにしても井上清氏の歴史捏造には学者としての良心のかけらも感じられない。彼は前掲書で「もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわかっている」と“告白”している。
それなのになぜ執筆したのか。言うまでもなく中国共産党への忠誠のためだろう。こんな具合に中国に操られている日本人は冒頭の「まよなか」氏のように今も存在するのである。それが沖縄の「言論空間」と心得ておくべきである。
(増 記代司)