妄想の中の真実


 午前6時ごろ、携帯電話が鳴った。兄夫婦の家族と暮らしている父からだった。大正15年生まれで、今年93歳になる父からの早朝電話には慣れている。それに、筆者も親に負けず劣らず早起きになっているから、「こんな朝早くに何だ!」とは驚かない。

 ゆっくりケイタイを手に取ると、「中共(中国共産党)がオレに毒を盛ろうとしているぞ!」と、いきなり物騒なことを言いだした。「何をバカなことを」と、口から出かかったが、それをグッとこらえながら聞いたいきさつは次のようなものだった。

 前日、かかりつけの病院で診察を受けたところ、顔なじみの医者が初めて漢方を処方した。薬の袋に中国語(漢字)が書いてあった。「長年、診てもらっているが、こんなことは初めて。さては、オレの命を狙っているのか」と思ったという。

 「田舎の百姓にすぎないオヤジをなんで…」と言いながら、3年前に他界した母が認知症を患った時、読んだ本の内容が頭に浮かんだ。認知症の一つに「被害妄想」がある。財布が見当たらないと、「誰かに取られた」と思うようになるという。

 「最近、オヤジが変だ」と、兄が言っていた。母と同じ年に亡くなった妻の母も晩年、軽い認知症のような言動があった。90歳すぎまで生きていれば、認知症になっても不思議ではない。

 父の兄は中国大陸で戦死している。心の奥底にある、兄への思いが「中共が…」となったのかもしれない。

 それから間もなく帰省し、オヤジの好きな寿司(すし)を食べに連れて行った。「子供の頃、この店に来たことがある。サーカスを見たあと入った。間違いない」と、父が目を輝かせながら言った。しかし、店はいつからやっているかと店主に聞くと、「平成になってから」という。

 「確かに記憶にあるんだがな」と首をかしげる父を車に乗せて帰る時、出た店の2軒隣に、古びた寿司屋がもう1軒あるのに気が付いた。

(森)