異常気象と秋の空


 「秋を描いてこい」。小学校5、6年生のころ、担任の先生から図工の時間にこんな課題を与えられ、校舎の外、校庭や運動場、そして裏山などを歩き回ったことを覚えている。田舎の小学校だから、秋を特徴づける景色はそこかしこに待ち構えていた。

 山吹色のイチョウの木や紅葉した楓、学校の周りではなかったが自宅の川向こうには黄金色の稲穂がつまった田んぼも…。そんなこんなを考えた揚げ句、色付き始めた柿の実を中心に据えて描き始めたが、毎回、図工の時間は限られているので、仕上がる頃には実は熟し、周りの葉っぱが少なくなっていた。

 人の記憶は不思議なもので、同じ時間に同じ場所にいても、その人の意識の持ち方によって千差万別な形で記憶される。さらに、不思議と心に深く刻まれて一生忘れないようなひとときの体験もあるが、片や日常的な体験の多くは何百回と繰り返しながら簡単に忘れてしまっている。しかし、そんな日常的な体験も明確な記憶には残っていないとしても、明らかに無意識の中に積み重ねられて、今の私をつくっている。

 そのような無意識の中に蓄積された共通項のようなものが、日本であるなら春夏秋冬の季節の移ろいであり、もっと短くとれば朝昼夕夜の風情、もっと長くとれば幼少青壮老という人の一生となるだろう。日本で発達した俳句や短歌が四季折々の風物をさまざまな言葉で織り込んでいることをみれば、日本人は季節の移ろいに対し極めて繊細な感性を持っているようだ。秋を描けという課題は、そんな感性を呼び覚ます契機になったので今も記憶に生々しく残っているのかもしれない。

 ここ数日、やっと秋らしい空を拝むことができたが、まだ夏服が必要な日もあるという予報だ。異常気象がささやかれる中で、季節と密着した文化や慣習をどう守り継承していくのか。教育が果たす役割も小さくないはずだ。(武)