“教師の感化力”問われる時代

教育をテーマにシンポジウム 北海道世日クラブ

 教育改革が声高に叫ばれているものの、いじめや不登校の問題など学校は依然として厳しい課題を抱えている。とりわけ北海道は児童生徒の学力水準が都道府県で下位にあるなど改善が求められている。そうした中で北海道世日クラブ(会長、根本和雄氏)はこのほど、札幌市内で教育をテーマにシンポジウムを開催した。北海道の教育の現状と課題、その処方箋について3人の有識者による議論をまとめた。(札幌支局・湯朝 肇)

新たな視点で道開くホリスティック教育

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ディスカッションする3人の有識者(左から根本和雄氏、吉田洋一氏、加藤隆氏)

 「かつて教育者であり哲学者であった森信三は、“教育とは人生の生き方の種まきをすることである”と述べていた。従って、教師たるものは、“どう生きるか”という人間としての“生き方”の種をまくことではないでしょうか」――。5月31日、札幌市内で開かれた北海道世日クラブ主催のシンポジウムでコーディネーター役の根本和雄氏はこう切り出してディスカッションの口火を切った。

 シンポジウムはまず、元北海道教育長で現在、北海道師範塾の吉田洋一塾頭が「北海道が抱える教育の課題」と題して基調講演を行い、その後、根本氏をコーディネーターに、吉田塾頭も加わり、名寄市立大学教授の加藤隆氏の3者によるディスカッションを行った。基調講演で吉田氏は児童生徒の学力・体力の低さ、いじめ・不登校などの現状とその原因などについて語り、解決策として学校のみの問題として捉えるのではなく、家庭・保護者、そして地域の人々との緊密な連携と生徒児童に対する関心を強めることの重要性を訴えた。そのうえで、かつてのゆとり教育に対しては、「本来は、単なる詰め込み教育ではなく、基礎的、基本的な知識・技能を活用して、子供たちが自ら考え判断し実践して社会性や国際性を養うなど、全人的な『生きる力』の育成を目的に導入されたはず。しかし、本来の機能が発揮されずに終わってしまった。私はゆとり教育の功罪をいま一度検証する必要があるのではないかと思っている」と述べる。

 一方、加藤教授は教師を目指す最近の学生の気質について、「知識を取り込むことには長(た)けているが、自分の考えを発表するのは苦手という学生が多い。高校まで受験のために知識を詰め込むことに終始している弊害があるのではないか」と指摘、さらに、そうした知識偏重の教育制度に対して、「本来教育の目指す“見えない学力を引き出す”という理想から乖離(かいり)させているような気がしてならない」と強調する。そのうえで同教授は「これまでの知育、体育、徳育というように教育を別々のものと捉えず、人間が心、体、魂が一つになっているという視点から、教育もまた人間と自然、個人と地域のつながりを一体と捉えたホリスティック教育が今求められている」と訴える。

 ところで、北海道師範塾は多くの現役教師が参加しており、「教師自らが自己研鑚すること」を掲げている。また、教師を目指す学生に対して、ボランティアで教師養成講座を開設している。これに対して根本氏は、英国の神学者ジョン・ヘンリー・ニューマンの言葉「教師の人間としての感化力は教育制度がなくとも示すことができる。しかし、教師の感化力なしには、いかなる教育制度もその機能を果たしえない」を引用し、北海道師範塾の志に賛意を示すと同時に、教師の感化力の重要性を訴えた。

 これに対して吉田氏は、「子供たちが親を除いて日々一番長く接している大人は学校の先生だと思う。子供たちは教師の背中を見ているわけで、そういう意味では感化力は大きい。私たちはそれを『教師の人間力』と呼んでいるが、教育はまさにそれに尽きると言っても過言ではない」と明言する。

 シンポジウムの終わりに根本氏は、インドの指導者マハトマ・ガンジーの「人格なき教育は七つの社会的大罪の一つである」「明日死ぬかのように生きよ、そして永遠に生きるかのように学べ」を掲げ、教師の社会と未来に対する影響の大きさを指摘するとともに、教師の生き方、在り方の大切さを訴えた。

学力向上に欠かせない学校、保護者、地域の連携

北海道師範塾「教師の道」塾頭 吉田洋一氏

基調講演要旨

600 北海道の教育の現状を見るとき、幾つかの課題が浮かび上がってくる。それらを列挙すれば、子供たちの学力と体力の低下、学校内のいじめ、不登校、少子化、そして教職員の資質など、ざっと考えてもこれくらいはすぐに挙がる。その他に教職員組合(北教組)などの問題もある。

 こうした課題の中で、まず北海道が取り組むべき課題は「子供たちの学力低下」を食い止め、さらに何とかして引き上げることだと考える。平成19年、私が北海道教育長に就いていた時、文科省は全国一斉に小学6年生と中学3年生の全員を対象にした「全国学力・学習状況調査」いわゆる全国学力テストをスタートさせた。この調査の目的は、義務教育の機会均等や一定以上の教育水準が確保されているかを把握し、教育の課題と成果などを検証することであった。ただ当時も今も、全国学力テストに対しては未だに批判の声が聞かれる。例えば、「テストで測られる学力は一部であり、子供たちの真の学力を見ることはできない」という批判。また、「学力テストによって学校間の過剰な競争が引き起こされ、序列化が進む」、あるいは「一部の学校の中には学校の成績を上げるため出来の悪い子に対して『学力テストの日は学校を休め』といった結果だけを求める学校も出てくる」との指摘。それから一番多いのが「子供たちの学力の傾向を見るならば全国一斉でなくとも、幾つかの学校を選んで行う抽出するやり方でも傾向が分かるので一斉調査は必要ない」という意見もある。

 確かに全国学力テストだけでは子供たちの学力の一部しか分からないというのは私も否定はしない。しかし、一部しか分からないから学力テストをするな、というのは暴論だ。抽出でいいという意見に対しては、学力の問題は子供たち一人ひとりの問題である。例えば、学校の平均点が60点であっても、一人の子が100点。もう一人の子が20点ならば平均は60点になる。子供たちの学力を平均だけで議論するのは不十分。一人ひとりの子供たちを見ながら、出来る子はもっと伸ばし、出来ない子はどこで躓(つまず)いているかを調べる必要があり、そのためには全校一斉で行う必要がある。

 そこで、平成25年4月に行われた全国学力テストの全道の結果を見ると、算数・数学、国語、理科の3科目すべての教科で全国平均を下回っている。もっとも、下回るといっても2~3ポイントの差なので、「まあまあではないか」と言えなくもないが、全国トップの秋田県を見ると、すべての科目で10ポイント近い差がある。この結果を見て、「それはそれでいいんだ」ということにはならない。北海道教育委員会は平成26年度の全国学力テストまでに全国平均以上にすることを政策目標として掲げた。

 そもそも基本的な基礎学力がなぜ必要か、といえば、生きていくうえで不可欠なものと私は考えている。床がコンクリートであればしっかりと立ち上がることができる。床が泥や砂であれば堅固に立ち続けることは難しい。そうした足元をしっかり固めさせてくれるものが基礎学力である。さらに言えば、単なる知識技能の習得だけではだめで、それを活用して課題を解決するための思考力や判断力、表現力を養っていく必要がある。そのための学習意欲を自ら持ち続けるのも大切な要素となる。それらをひっくるめて我々は学力と言っているが、そうした子供たちに隠された能力を引き上げていくのが教育であろうと思う。

 一方、全国学力テストでは教科に関する調査のほかに、学習意欲、学習方法、学習環境、生活の諸側面等に関する調査も行っている。例えば、「毎朝朝食をとっているか」「睡眠時間はどのくらいか」などだが、その中で北海道の小学生は、テレビを「一日2~3時間」、ゲームを「1~2時間」が最も多く、かなり長時間にわたってそれらを行っている児童が多いことが分かる。

 また、普段の日の睡眠時間を見ると「8~9時間」「9~10時間」が多く、こうした生活習慣が児童の学力や体力に大きく影響していることを裏付ける結果になっている。従って、子供たちの学力向上という課題は単に学校だけの責任とは言えない。もちろん、学校には第一義的な責任はあるが、学校の取り組みが悪いから成績が低いということでは済まされない。学校と家庭・保護者、そして地域の皆さんが連携をとって学習環境を整え、学習意欲を持たせることが不可欠になっている。