玩具と空想力
一歳半を過ぎた孫娘が愛想よくニコニコしながら近づいてきて、私の膝の上にちゃっかりと座った。しばらく近くの電気スタンドのスイッチを押して遊んでから、私の目を見てニコっとしたかと思うと、さっと私のスマートフォーンを取ってスイッチを入れた。
素早くロック解除のため画面をスライドさせてパスコードの数字を軽快にタップ(軽くたたく)する。何回やってもエラーが続くので、仕方なくホーム画面を出してあげると、右手の人差し指で上手にタップしたり、フリック(画面に触れた指先を素早く払う)したりする。その仕草がかわいらしくてしばらく見ていたが、どんどん意識が画面にのめりこんでいくではないか。これはよくないと思って他のおもちゃを見せて何とかスマホを取り上げた。
きっと親がやっている仕草をじっと見ていて、それをまねているのだろうが、自分の指先ひとつで画面がパッ、パッと変わったり、音が出たりする感覚がたまらなく面白いのだろう。
最近の幼児用のおもちゃをみると、楽しく遊びながらさまざまな知能を啓発できる知育玩具や、電子技術を駆使した電子玩具が幅を利かせ、私が幼かったころとは隔世の感がある。それが本当に子供にとっていいのかどうかは疑問だ。
例えば、かつて直方体の積み木ひとつあれば、それがバスになったり飛行機になったりし、畳のヘリの上を動かせば汽車にもなった。段ボールの小さな箱があれば、厚紙の手足をつけてロボットになり、桑の木の枝を折って皮をむくと立派な刀になった。遊び道具が単純であればあるほど、逆に空想力は無限に広がっていくものだ。それが逆に制限(限定)されることがあれば本当にいい玩具とはいえない。
意識がすべて小さな画面の中に吸い込まれるスマホが幼児に与える弊害はいうまでもないだろう。
(武)