便りがないのは良い便り、病や死の知らせ増える


 よく「便りがないのは良い便り」といわれるが、還暦の前あたりからだろうか、携帯電話に、故郷の弟から電話がかかってくると、ドキッとするようになった。母の危篤や死はもちろんのこと、同じ町に住む親族の死や病気についての連絡が圧倒的に多くなったからだ。

 つい最近も、通話記録に弟の名前(不在着信)が残っていたのでかけ直すと、幼い頃にいろんな観光地に連れて行ってもらった母方の伯父が既に亡くなっていたことと、近所に住む叔母(叔父の奥様)が倒れて脚を骨折し手術し、今リハビリしていることを知らせてくれた。

 男盛りのバイタリティーあふれる姿が一番印象に残る伯父は寝たきりになって半年もしないうちに亡くなり、年を取っても溌剌としていた叔母は低く張ったロープを越えたと思ったのに足が引っ掛かって倒れたのだという。いずれも「老い」を象徴するような出来事だ。

 幼い頃から筆者の心に影響を与え、記憶を形作るパーツとなった人たちが一人、また一人とこの世を去っていく。これは自然の摂理なのだろうが、筆者の心の中に現れる姿はいつも変わらない。それは一面的で主観的なイメージではあっても、確実にその人がこの世で生きた証拠となるものだ。

 「僕は特急の機関士で~」と占領期のおかしな歌を歌っていた祖父や、いつも柔和で怒った顔を見たことがなく、昔の話をよくしてくれた祖母、無口でよく仕事をしながらも釣りや盆栽にも精を出した父、冬はいつも水仕事で手が真っ赤に腫れていた母、それから4人の叔父や叔母など、実に多くの人たちの個性が心の中で生きている。恐らく、筆者も妻や子、孫の心の中で、いろんな姿で生きていくのだろう。

 最近の弟との通話は、こんな言葉で終わることが多い。「だんだん皆おらんようになるな~。いつかは行くんだろうけど、体に気を付けてな~」

(武)