小鳥の死に「命」を思う


 「きゃあ~! お父さん来て」

 玄関のドアを開けた妻が悲鳴を上げた。何が起きたのかと駆け付けると、玄関ポーチでスズメほどの小鳥が死んでいた。シジュウカラのようだが、よく分からない。夜、家に衝突したのだろうか。

 妻は、動物の死骸がひどく苦手だ。ゴキブリでも触れることができない。気味が悪いのは分かるが、昆虫にも「きゃあ~!」と、大げさに叫ぶ。

 普段、独り暮らし(筆者は東京に単身赴任)ということもあって、妻の亡骸嫌いは、警察を出動させたこともある。今年春、軒下で野良猫が死んでいた。市役所の市民生活課に相談すべきなのだろうが、日曜だったので、警察に電話したのだ。「何とかしてください」と。

 間もなく、お巡りさん2人がやって来て、袋に入れて処理してくれたという。その話を聞いて、「日本の警察はなんて親切なのか」と感心したが、それくらい自分でできないものかと呆(あき)れもした。男女の違いなのか、育った環境の差なのか。

 銀行員の娘として地方都市で育った妻に対して、筆者は山里の農家生まれ。小学低学年の頃、吹雪の中、木の根本で野バトが凍え死んでいるのを見つけた。冷たくなった野バトを手のひらに乗せて家に持ち帰り、コタツに入れて生き返らせようとしたことがある。かと思えば、祖母が鶏を絞めるのを平気で見ていた。

 小鳥の死骸を、子供たちの情操教育にいいからと長年飼った犬が眠る庭の片隅に埋めながら、小鳥の死を題材にした金子みすゞの詩「雪」を思い出した。

 誰も知らない野の果(はて)で/青い小鳥が死にました/さむいさむいくれ方に/そのなきがらを埋(う)めよとて/お空は雪を撒(ま)きました/ふかくふかく音もなく……。(彩図社文芸部編纂「金子みすゞ名詩集」)

 小鳥の墓のそばで手を合わせる妻を見て、子供の時、手のひらに乗せた野バトの冷たさが蘇(よみがえ)ってきた。

(森)