自然の前には、まだまだ至らない人の知恵


 雨が降ります/雨が降る/遊びに行きたし/傘はなし/紅緒の木履(かっこ)も/緒が切れた

 外で遊びたい盛りの小学校1、2年の頃に習った。北原白秋が大正7年、児童雑誌『赤い鳥』に発表した詩に作曲家の弘田龍太郎が曲を付けた童謡『雨』だ。雨が降るだけでも気がふさぐのに、家に傘がなくて、紅緒まで切れた。なんと物寂しい歌なんだろうと感じ、心に残った。

 筆者が小学校入りたての頃、大人は竹の柄で竹の骨組みに油を塗った和紙を貼った重い番傘を使っており、大雨が降るとよく停電していた。新聞の天気予報はあったようだが、遠足の前は、てるてる坊主をぶら下げて「あした天気(晴れ)にしておくれ」と祈るのが関の山だったので、この大正期の歌詞と旋律も心に響いたのかもしれない。

 もう少し学年が進むと、テレビの天気予報が、てるてる坊主頼みを一変させた。その予想はかなり外れたが、特に台風の時には大変、重宝した。

 台風の大きさや強さ、中心の位置と予想進路などの情報が、実際の雨風の強さの変動とかなり関連するので、どのくらいで雨風が弱まるか予想がつく。明日(今日)学校が休みになるか、町の川が氾濫するかどうか、それなりに分かったからだ。

 台風のたびに流された木の橋は、やがて鉄筋コンクリートの“潜水橋”となり、川の両岸の堤防も補強されたが、それでも想定を超える台風が来ると無残に破壊された。当時は、人間はまだ自然の前で無力だなと思った。

 それから何十年もたち、大雨対策を含むインフラは格段に充実し、インターネットで雨雲の動きがほぼリアルタイムで分かるようになったが、それでも毎年のように台風や線状降水帯のために甚大な被害が出ている。それも山を切り崩したり、谷を埋めたり、川辺の田畑をつぶして新しく造成(開発)した宅地や市街地での被害が大きい。

 人の知恵はまだまだ至らないところが多いようだ。

(武)