今年は36年に一度の「五黄の寅」


初詣に虎にちなむ寺社訪ねる、朝護孫子寺の「大虎」

今年は36年に一度の「五黄の寅」

信貴山朝護孫子寺の大虎(多田則明撮影)

 今年は36年に一度の「五黄(ごおう)の寅」。九星気学において最強運勢の「五黄土星」と、十二支の中で最も運勢が強い「寅年」が重なった年である。この年生まれの女性は強く、芯がぶれない。

 そんな寅年にふさわしい初詣とはと考え、思い出したのが世界一大きな虎の張り子「大虎」がある奈良・生駒山(いこまさん)の信貴山朝護孫子(しぎさんちょうごそんし)寺、「信貴山の毘沙門(びしゃもん)さん」として人気がある。

 大阪と奈良の県境にある生駒山は宗教的に興味深い山で、『日本書紀』では東征の神武天皇が山麓で、長髄彦(ながすねひこ)と激戦を繰り広げている。山の北端には役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修験道場とされる宝山寺が、「生駒の聖天(しょうてん)さん」として大阪商人らに篤く信仰されている。その山麓を走る近鉄奈良線は同寺参拝のために敷かれ、戦前、経営難に陥った時には同寺が財政援助した。真言律宗の大本山で、空海による神仏習合の典型である。

今年は36年に一度の「五黄の寅」

朝護孫子寺本堂(多田則明撮影)

 生駒山の南端にあるのが朝護孫子寺で、信貴山真言宗の総本山。本尊は仏教を守護する武神の毘沙門天で、山門をくぐると大きな石の鳥居がある。その先に、とりわけ家族連れが長い列をつくっていたのは、本堂を見上げる大虎の前で記念撮影するため。境内には虎の像や絵があふれていた。

 伝承によると、仏教受容をめぐる蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏の戦の折、仏教を奉じる蘇我氏の家で育った少年時代の聖徳太子が、この山で戦勝祈願をしたところ、毘沙門天が「寅年、寅の日、寅の刻」に現れ必勝の秘法を授けたという。戦に勝った聖徳太子は自ら毘沙門天を像に刻み、伽藍(がらん)(寺院)を建てて祀(まつ)り、同山を信じ貴ぶ山として「信貴山」と名付けたという。参道脇には少年時代の太子の騎馬像が銀色に輝いていた。

 さらに醍醐(だいご)天皇が病に伏した折、同寺の命蓮(みょうれん)上人が毘沙門天に祈願したところ、たちまち全快。以来、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」と呼ばれるようになったという。

聖徳太子ゆかりの四天王寺、街には太子信仰があふれる

今年は36年に一度の「五黄の寅」

四天王寺(多田則明撮影)

 信貴山を下り、JR大和路線で王寺から天王寺に向かうと、線路横を大和川が走っていた。飛鳥(あすか)と難波(なにわ)を結ぶ川で、聖徳太子もこの川を上り下りしたのだろう。天王寺駅から歩いて12分、聖徳太子の創建とされる和宗総本山の四天王寺がある。

 上記と類似の説話で、物部氏との戦で蘇我氏が劣勢になった時、14歳の聖徳太子は、近くの木で四天王の像を作り、「この戦に勝利したら、四天王を安置する寺を建てる」と誓願。そのかいあって味方の矢が物部守屋(もののべのもりや)に命中し、蘇我氏が勝利。6年後の593年、太子は四天王寺の建立を始めたという。四天王とは、須弥山(しゅみせん)で仏法僧を守護する四神、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天(こうもくてん)、北方の多聞天(たもんてん)(毘沙門天)である。

 天王寺駅から四天王寺、さらに大阪城まで歩くとよく分かるが、上町(うえまち)台地の西端にあり、西方浄土(さいほうじょうど)を思わせる西日を望むことから「夕陽丘」の地名がある。古代、近くまで海が迫り、船で中国や朝鮮から大和を訪ねた人たちは、海辺に建つ壮大な伽藍を目にしたことだろう。政治家でもある太子には、そうした外交センスもあった。

今年は36年に一度の「五黄の寅」

大江神社の狛虎、かつては毘沙門堂があった(多田則明撮影)

 四天王寺の西側、上町台地の崖の上に、珍しい狛虎(こまとら)の大江神社があり、好奇心旺盛な大阪人が初詣の列をなしていた。四天王寺の鎮守社である四天王寺七宮の一つとして聖徳太子の創建という。

 四天王寺の北西・乾(いぬい)の方角にあることから「乾の社」と呼ばれていたが、幕末、神仏分離の高まりで大江岸にちなみ大江神社と改められた。

 東隣には、愛染明王(あいぜんみょうおう)を祀る勝鬘院(しょうまんいん)愛染堂があり、太子が勝鬘経を推古天皇に講じた所だという。街を歩くと太子講を掲げた会社や日本最古の会社・金剛組もあり、太子信仰があふれていた。

(多田則明)