真珠湾攻撃の立役者、航空参謀・源田実の証言


日米開戦80年、源田実の回顧録『風鳴り止まず』を読む

 今年は日本軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を掛け、日米が開戦して80年。新聞、テレビでも特集番組が組まれた。日本人捕虜第一号となった元日本兵にスポットを当てるなどして戦争の悲惨を訴えるものが大半であった。それはそれで、意味のあることだが、歴史を揺るがした戦争の始まりを振り返るにはやや一面的、材料は新しいがそこで何か新しい見方が出てくるというものは少なかった。

真珠湾攻撃の立役者、航空参謀・源田実の証言

源田実著『風鳴り止まず』(サンケイ出版)=右=と前半を再編集した『風鳴り止まず<真珠湾編>』(PHP研究所)

 そんなことを思いながら、真珠湾攻撃の立案に中心的な役割を果たした第一航空艦隊参謀・源田実が、世界日報に昭和57年2月から約8カ月間連載した太平洋戦争の回顧録『風鳴り止まず』を読み返し、改めて貴重な証言が少なくないと感じさせられた。ちなみにこの連載は、同年サンケイ出版から単行本として出版され、前半を再編集した『風鳴り止まず <真珠湾編>』が昨年に、PHP研究所から出版されている。

 著者の源田実は、海軍兵学校(52期)を出て一貫して航空畑を歩み、自ら操縦桿(かん)を握り、曲技飛行も行って“源田サーカス”と呼ばれる一方、熱心に航空戦術の研究にも励んだ。その実績を買われ、真珠湾では南雲忠一中将率いる機動部隊の第一航空艦隊参謀を務め、戦争末期には新鋭戦闘機紫電改の部隊を率いて米爆撃機B29に戦いを挑んだカリスマ的な軍人。戦後は、自衛隊に入り空幕長、参議院議員となって自民党国防部会長を務めた。

第2次攻撃断念の背景など、現場の状況・雰囲気生々しく

 同書は、日米開戦に至る外交・政治状況、日本海軍の戦略などにも稿を割き、戦争の全体像を描くことにも努めているが、やはり自身の体験したものに迫力がある。その中で、真珠湾攻撃で米空母を取り逃がしたこととともに常に問題とされる、なぜ第2次攻撃を行わなかったのかについての証言が興味深い。

 まずハリウッド映画「トラ・トラ・トラ」(1970)では、源田が南雲中将や草鹿参謀長に第2次攻撃を迫ったことになっているが、そんな事実はないと言っている。そして第2次攻撃を敢行するとしたら夜間作戦となり、しかも天候悪化で母艦が最大15度ローリングする状況で、飛行機の収容は非常な危険を伴うこと、ハワイ近海にいるが位置がつかめない敵空母2隻がいつ攻撃を仕掛けてくるか分からないことなどから、南雲長官の判断は正しかったとしている。

 このほか、草鹿参謀長が軍令部から「空母を損傷しないように」と強く言われていたことなども挙げているが、「死生を超越した大勝負を終わって帰って来たばかりの搭乗員たちを、さらに危険度を増した攻撃に投入する気にはなれなかった」との吉岡忠一航空参謀の回想を紹介。「機動部隊指揮官の南雲長官にしても、思いはおそらく同じであったろう」と述べている。

 第2次攻撃を行わなかったのは、戦艦の撃沈など華々しい戦果を追求し、戦略的には重要だが地味な基地施設の攻撃を軽んじたなどと、旧軍の体質的問題として批判するのは簡単だ。しかしこれも後知恵にすぎない。批判する時は、その状況をよく検証し、さらにその場に自ら身を置いて考えてみなければ、生きた教訓とはなり得ないだろう。そのためにも、戦いの現場にあった当事者の心の内も率直に語った源田の証言は貴重であり、今後も読み継がれるべきものである。

(特別編集委員・藤橋 進)