浄土真宗の在俗の篤信者、讃岐の妙好人庄松


香川県東かがわ市小砂説教所で152回忌法要

浄土真宗の在俗の篤信者、讃岐の妙好人庄松

庄松の肖像

 香川県東かがわ市小砂(こざれ)にある小砂説教所で3月4日、讃岐の妙好人(みょうこうにん)庄松(しょうま)の152回忌法要が営まれた。妙好人とは浄土教、とりわけ浄土真宗の在俗の篤信者のことで、「称名念仏(しょうみょうねんぶつ)」を確立した中国浄土宗の善導(ぜんどう)が『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』で「念仏する者は人中の好人なり、人中の妙好人なり」と称賛したことによる。

 日本では江戸時代から使われ、鈴木大拙や柳宗悦が真宗信者の理想としたことで広まった。大拙は『日本的霊性』で庄松を「浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる」と評価している。

浄土真宗の在俗の篤信者、讃岐の妙好人庄松

妙好人庄松の回忌法要=3月4日、香川県東かがわ市の小砂説教所

 この日、説教所に集まったのは小砂自治会の5人、コロナ禍の前は県外からも多くの人が参列していたという。導師を務めたのは、庄松が檀家(だんか)であった真宗興正派勝覚寺(しょうかくじ)の赤澤智海住職。「正信偈(しょうしんげ)」が低く、高く唱えられた。

 庄松は寛政11(1799)年の生まれで、明治4(1871)年に亡くなり、小砂説教所が建設されたのは明治25年。参列の老人が指さす天井を見上げると、太い梁(はり)の木肌に寄付した愛媛県の信者の名が太く墨書されていた。

 庄松の徳にあずかろうとの思いからだろう。地域の真宗門徒らが建て、かつては同様の説教所が各地にあったという。運営は小砂自治会が行い、近くに自治会館があった。

 庄松は今の東かがわ市土居に、貧しい小作農・谷口清七の家に生まれ、農作業のほか縄ないや草履作りをし、子守や寺男としても働いていた。ほとんど教育を受けず、生涯独身で、わずかな田畑を耕して生涯を終えた。直情径行の性格ゆえ苦労するが、勝覚寺の僧・周天に導かれ、信仰を深めていったという。

 庄松の言動を集めた明治時代の『庄松同行ありのまゝの記』によると、草履作りをしていた庄松は、ふと阿弥陀如来(あみだにょらい)のご慈悲を思い出し、仕事を放り出して座敷に上がると、仏壇の障子を開いて、本尊に「ばーあ、ばーあ」と呼び掛けたという。親が幼児をあやす「いないいないばあ」である。仏と親子のような信頼関係で結ばれていたのだろう。

鈴木大拙も称賛、農夫の素朴な信仰を顕彰

浄土真宗の在俗の篤信者、讃岐の妙好人庄松

小砂説教所にある庄松の座像

 日本的霊性は浄土宗と禅宗に培われたとする大拙は、英文の「仏教の大意」で、庄松は真宗信仰の極致が禅宗の妙境と一致することを実証する人物だと評している。いわゆる他力と自力の一致で、その境地に、学も修行もない農夫が、日々の貧しい暮らしの中で到達したのである。知識はむしろ信仰の妨げになりかねない。

 戦後、日本人の精神的荒廃を嘆いて出した『妙好人』(法蔵館)で大拙は、日本仏教と妙好人について次のように述べている。

 「インドでは、佛教は余りに抽象的思索の面に走りすぎて亡びた。幸い漢民族の間に拡がって来て、唐宋時代に禅となった。それがついには文学的表現に憂身をやつすようになった。それが却って佛教的体験の本質的なるものを失脚させた。

 日本に渡った佛教は、始めは抽象的領域を出なかったが、鎌倉時代になって純粋に日本的となった。…ことにそれが浄土真宗になるに至って、日本的なるものを大いに発揮させた。…日本的になって、実に世界性をもつようになったというのである」

 小砂説教所の境内に庄松の墓があるが、見舞いの同行が「墓を建ててやろう」と言うと、寝ていた庄松は「石の下には居らぬぞ」と答えたという。追善供養も、墓もいらぬというのは、往生(おうじょう)決定を確信していたからである。真宗の教えの核心は「弥陀の本願」で、衆生(しゅじょう)が救いを求める前から、阿弥陀如来がすべての衆生を救おうとの本願を立てているという信仰である。

 大拙は、その点がプロテスタントと似ているという。情報があふれる時代に、庄松の素朴な信仰に引かれる。

(多田則明)