青春を謳歌した幾多郎と仲間たちの姿を紹介


企画展「頂天立地自由人-西田幾多郎の青春時代-」

進歩的な精神で自由奔放に、明治憲法発布の日に撮影

 石川県かほく市の県西田幾多郎記念哲学館では、企画展「頂天立地自由人―西田幾多郎の青春時代―」が開かれている。幾多郎自身、学生時代を「私の生涯において最も愉快な時期であった」と回顧している。

 展示では、激しく移り変わる明治期にあって、進歩的な精神の下、自由奔放(ほんぽう)に振る舞い、青春を謳歌(おうか)した幾多郎と仲間たちの姿が生き生きと紹介されている。

 タイトルの「頂天立地自由人」は、写真の右端に写る親友の山本良吉がかざしている。二人は第四高等中学校時代に知り合い、生涯の友となった。

 山本は後に東京の私立武蔵高等学校の教頭、さらに校長として同校の草創期に力を尽くした教育者で、西田にとって最も親しかった友人の一人だ。哲学から日常生活に至るまでさまざまな機微を話し合っている。山本に宛てた西田の手紙は220通以上も残っている。

青春を謳歌した幾多郎と仲間たちの姿を紹介

明治憲法発布の日に18歳の幾多郎(後列右から2人目)が、高等学校の仲間たちと撮った写真=県西田幾多郎記念哲学館提供

 掲載の写真は、明治22(1889)年2月11日、明治憲法発布の日に18歳の幾多郎が、高等学校の仲間たちと撮ったものだ。後列左端の福島淳吉(若くして夭折(ようせつ))は「Destroy Destroy(破壊)」の文字を掲げている。反抗心に満ちたこの写真の背景には、時代によって翻弄(ほんろう)された彼らの学生生活があった。

 当時彼らが在籍していた第四高等中学校は、同20年に開校したばかりで、元は加賀藩の藩校の流れをくむ「石川県専門学校」だったが、中学校令に基づいた官立の「第四高等中学校」になった。

 石川県専門学校は外国語で専門の学業を授ける学校で、地元出身の優秀な教師と生徒が集まっており、皆友達のような家族的な学校だった。それが第四高等中学校になってからは校風も教室も一変し、子弟の間に親しみのあった温かな学校から、規則ずくめの武断的な学校に変わってしまった。

 学問文芸に憧れ、極めて進歩的な思想を抱いていた幾多郎やその仲間たちは、薩摩から来た教授陣に反発し、次々と抵抗運動を展開した。例えば行軍(肉体強化を目的とした準軍事訓練)や兵式体操はできる限りさぼり、つまらない授業はボイコットし、学力が十分ではないと見なした教師には間違いを指摘してやり込めた。

 その結果、幾多郎は行状点不足(素行不良)で留年になった。しかし、血気盛んな当時の幾多郎は「不満な学校をやめても独学でやっていける」と自ら中退する。そんな抵抗運動の最中に撮られたのが、この写真だった。

 「独立独行で途を開いていこうとする彼らの精神と、近代憲法の樹立を重ね合わせたのでしょう」と同館専門員の山名田沙智子さんは指摘している。

 四校中退後の幾多郎の人生は苦労の連続となったが、晩年に「私の生涯に於て最も愉快な時期であった」(「或教授の退職の辞」)と振り返っている。

 同展は3月21日まで、観覧料は一般300円、高齢者(65歳以上)200円、高校生以下無料。問い合わせ=(電)076(283)6600。

(日下一彦)