検閲でペンを折った未完の作「路傍の石」
山本有三記念館で企画展 「路傍の石」に描かれた少年
東京都三鷹市にある山本有三記念館で、企画展《「路傍の石」に描かれた少年》が開かれている。
この小説は昭和12年1月から6月にかけて「東京・大阪朝日新聞」に発表された、山本有三(1887~1974)の作品で、中学校への進学がかなわなかった愛川吾一が、生きる道を懸命に模索する物語。戦後、児童文学作品として子供たちに読み継がれてきた。
作品を読んでみると、少年吾一が苦労の重荷を負う背景には、家庭と社会の問題がのしかかっていて、子供向きとは思えない出来事が登場する。作者によれば、2部構成として意図され、第一部では吾一の少年期から青年期を扱い、第二部ではその40年後、執筆当時の昭和12年前後を扱うつもりだったという。
この企画展では、この小説をめぐって、作者は何を書きたかったのか、なぜ第二部が書かれなかったのかをテーマとしている。
「山本有三は田坂具隆(ともたか)監督に作品の構想を語っていたのです」と、同館学芸員の三浦穂高さんが解説してくれた。昭和13年に映画化される時のことだ。「少年が七つの段階をこえて成長してゆき、第二部では、人生の終わりに、大人になった吾一が、歩んだ人生を振り返ってみるというもの。子供向きの小説ではなかったのです」
展示されているのは、東京朝日新聞の広告や掲載紙、原稿、改稿されて掲載された「主婦之友」のバックナンバーの数々。また別室では、4度にわたって映画化された映画作品のポスターや写真、解説文、各出版社から出されたジュニア版など。
描こうとした時代の様相、統制が厳しくなり執筆を断念
新聞の連載は、日中戦争の影響で連載を断念。翌年、「主婦之友」に掲載誌を変え、改稿してもう一度第一部から連載した。だが、厳しさを増す検閲のため継続できず、昭和15年、筆を折った。「ペンを折る」という文章で終わっている。
吾一少年の物語は、父親は没落士族で、条約改正や日露戦争など時事的話題も登場し、福沢諭吉の「学問のすゝめ」をめぐる議論もあり、むしろ時代そのものを描こうとする意図が感じられる。
「ペンを折る」によれば、構想したのは昭和11年で、まだ時世は険しくなかった。しかし統制が日ごとに強化され、構想の主題通りに書こうとすれば不幸を招くことになると判断。「その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、わたしは途中から筆を曲げなければなりません。けれども、筆を曲げて書く勇気は、わたくしにはありません」
作品にこういう場面が登場する。「あんちゃん、お月さんはどうして落っこちないの」。弟から質問された吾一の友人は、引力を知っているが、その話はできず、「お月さんが落っこちねえのはな、お天とうさまやお星さんと、仲よくお手てをつないでいるからさ」と答える。それだけだが、世の中はなぜそうした人と人との関係になっていないのか、という疑問が生じるのだ。
このあたりの記述になると、検閲の目が避けられなくなったようだ。「もし、世の中がおちついて、前の構想のままでも、自由に書ける時代がきたら、わたくしは、ふたたび、あのあとを続けましょう」と山本は記した。そして題名について言う。「あの作は路傍に投げ捨てるよりほかはありません。そういう運命は、すでに、この作の題名の中に、含まれていたのかもしれません」
(増子耕一)