特別展「最澄と天台宗のすべて」を見て


伝教大師1200年大遠忌記念、上野・九州・京都を巡回

特別展「最澄と天台宗のすべて」を見て

伝教大師坐像(部分、重要文化財、滋賀・観音寺)

 上野の東京国立博物館で10月12日から11月21日まで、伝教大師1200年大遠忌記念、特別展「最澄と天台宗のすべて」が開かれた。同展は来年2月から九州国立博物館で、4月から京都国立博物館で巡回され、それぞれ当地を代表する展示が加わる。

 同展を見て思い出したのは、2009年に「円仁まつり」の取材で訪れた下野(しもつけ)(栃木市岩舟町)の大慈寺と、今年9月25日、凝然(ぎょうねん)大徳七百年御忌法要で行った東大寺、そして今年5月、上五島のカトリック教会頭ケ島天主堂を訪ねた折、入唐成就のお礼に来た最澄が、延暦寺の守護神・山王権現を祭祀(さいし)した山王山である。

「優劣はない」とした最澄、宗教間交流の源流となる

 さぬき生まれの私は空海が好きだが、最澄との関係では最澄が気の毒に思える。断絶の最大の理由とされるのが、真言密教を学ぶため空海の元に遣わした愛(まな)弟子の泰範(たいはん)が、最澄の元に帰らなかったことである。

特別展「最澄と天台宗のすべて」を見て

今年8月4日の比叡山宗教サミット

 彼に宛てた手紙で最澄は「老僧最澄、生年五十年、生涯久しからず。…劣を捨てて勝を取るは、世上の常理ならん。しかるに法華一乗、真言一乗、なんぞ優劣あらんや。…来春の節をもって、東遊して頭陀し、次第に南遊、さらに西遊北遊して永く叡山に入らん」と東国布教の決意を述べている。つらさを乗り越え、自らを奮い立たせるかのように…。

 最澄を継いだ円仁、円珍らが天台密教を完成させ、やがて日本仏教の母山と呼ばれるほど延暦寺を発展させた。『秘密曼陀羅十住心論(まんだらじゅうじゅうしんろん)』で真言密教を最高位に置いた空海に対して、最澄は「天台宗と真言宗との間に優劣はない」とした。現代的感覚では最澄の方が正しく、そうでないと「比叡山宗教サミット」のような宗教間交流は実現しない。

最澄が足跡残した東国、日本仏教史に大きな役割を果たす

 最澄の東国布教を助けたのが奈良時代、日本に戒律を伝えた鑑真(がんじん)和上の弟子の道忠一門だった。鑑真から具足戒(ぐそくかい)を受け、律宗を学んだ道忠は、鑑真没後、関東に下って人々に菩薩(ぼさつ)戒を授けて回り「東国の化主」と呼ばれた。

 755年、東大寺に戒壇院が建立されると鑑真が戒和上となる。鑑真と共に来日した唐僧の法進は戒壇の創立に尽力し、鑑真が創建された唐招提寺(とうしょうだいじ)に移住すると、東大寺戒壇院の戒和上を継いだ。唐招提寺を開創し、菩薩行を重んじた唐僧の思託(したく)の弟子が道忠である。

 鑑真没後4年の767年生まれの道忠は、31歳で写経事業に取り組んだ最澄を助け、道忠の弟子・円澄(えんちょう)(第2代天台座主)も加わる。この写経事業で最澄と道忠に深い絆が生まれた。最澄と道忠門弟らとの交流が比叡山の人材を育て、道忠と弟子の広智(こうち)、徳円らに学んだ青年僧たちが、天台教団の座主に就くようになる。

特別展「最澄と天台宗のすべて」を見て

大慈寺の円仁坐像(栃木市岩舟町)

 当時、東国では法相宗(ほっそうしゅう)の徳一が活発に教化し、法華経・最澄を批判していた。一方、最澄の法華経書写の依頼を受け、下野国・小野寺(大慈寺)の広智らが1000部書写している。

 広智は第3代天台座主・円仁の師僧で、第4代天台座主・安慧(あんえ)も最澄の門弟になる前、広智に師事していた。円仁は東大寺で具足戒を受け、次いで最澄の東国布教に従い、大慈寺で徳円と共に最澄より円頓(えんどん)菩薩戒を受けている。徳円は、初め広智・基徳・徳念と共に奈良・大安寺の広円に学び、その後、比叡山で最澄に師事し、大乗戒壇で大乗戒を受けた。道忠の弟子たちが育てた東国教団と最澄は密接に結び付いていたのである。

 東国行きの翌年、大乗戒壇独立の決意を表明した最澄は『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を執筆し、初めに「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝となす」と述べている。この言葉と思想が日本人の核心を形成してきたように思う。

 思想は対象との対話を通して形成される。それなりの学識、思想を持ち、本音で語り合える友や論敵の存在が思想構築には欠かせない。最澄の最後に足跡を残した東国は、日本仏教史に大きな役割を果たした。

(多田則明)