きょうは令和3日目。改元を期に、新元号の…
きょうは令和3日目。改元を期に、新元号の典拠となった「万葉集」への関心が高くなった。万葉集を前期と後期に分けた場合、前期の方が評価が高い点では大方の見解が共通する。
前期の代表者が柿本人麻呂だ。「大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)のうへに廬(いほり)せるかも」(235番)は国文学者の折口信夫が「傑作」と評した歌。
「大君は神にしませば」は「持統女帝は神だ」と人麻呂が本気で信じていた証拠では無論なく、こうした作歌上のパターンが当時あったと言われている。女帝の近くにいた人麻呂は、女帝を「政治的力量に富んだ人物」と認識していたであろう。要は人間と思っていたのだ。
それを「女帝は神なのだから、雷よりももっと高いところに仮小屋をお造りになった」というふうに歌った。天皇を讃(たた)える以外の特別な内容があるわけではないのだが、人麻呂以外にこうした雄大な歌を詠める歌人がいなかったことは、文学史上の奇跡と言うしかない。
後期万葉の大伴旅人や、その子で万葉集の編集長だった大伴家持(やかもち)の経歴は明瞭だ。半面、人麻呂の履歴がほとんど不明なのは興味深い。彼の歌のどれもが人麻呂という作者個人を感じさせないのも、大伴父子と比べてより古代的な印象を与える。
経歴不明だからこそ、梅原猛著『水底(みなそこ)の歌─柿本人麿論─』(新潮文庫)のような著作が書かれる余地がある。人麻呂の正体不明さと歌のスケールの大きさは深い関係がありそうだ。