遼東の風塵
(朝鮮第22代王)正祖4年、1780年の陰暦7月10日、燕厳(ヨンアム)・朴趾源(パクジウォン)(燕厳は号)は遼寧省外の十里河を出て瀋陽に向かった。ひどく暑かったその日、眼前には遼東の平原が広がっていた。
「四方を見回すと、平原が果てしなく広がって遮るものが一つもない。ああ、ここが昔の英雄たちが戦った場所だったのか。…天下の安危はいつも遼東の平原にかかっていた。遼東の平原が鎮まれば天下の風塵はおさまり、遼東の平原が騒がしくなれば天下の軍馬が動く」
何を考えていたのだろうか。高句麗を攻撃した隋の文帝と煬帝、唐の太宗のことだろうか。軍馬の蹄はその時だけ遼東の平原を揺るがせたのではない。漢の武帝が古朝鮮を滅ぼした時も、契丹族の遼、女真族の金、蒙古族の元が勃興した時も、軍馬は遼東の平原を黒く埋めた。覇権戦争の真っただ中に立った遼東の平原。朴趾源の文章は続く。「瀋陽は清が起こった地であり、東は寧古塔、北は熱河、南は朝鮮に接し、西は中国に向かっている」
清の乾隆帝の70歳の誕生日を祝うために燕京(北京の別名)に向かう使節団。朴趾源は馬の背に乗ったり車に座ったりしながら“清の天下”を思いつつ、歴史と風俗を細かく書いていった。名著の『熱河日記』はそこから生まれた。
現在、その地には中国の遼寧省がある。遼東は再び歴史の前面に登場するようだ。中国は遼寧省の丹東を関門にして、“一帯一路”を平壌~ソウル~釜山に拡張すると表明した。一帯一路とは何か。古代の東西交易路の地域に2014年から35年間かけて、“現代版シルクロード”を構築する戦略だ。中国資本が大挙投入される。遼寧省政府は一帯一路のビジョンを明らかにした。「中国~ロシア~モンゴルの経済回廊と韓中日+Xモデルを融合して“東北アジア運命共同体”をつくる」。文在寅政府の“(韓半島)新経済地図(構想)”は吸収されてしまう。
一帯一路は平和と繁栄をもたらすか。首をかしげざるを得ない。“覇権主義の棍棒(こんぼう)”をたびたび振り回している中国ではなかったか。わが国の歴史のルーツまで引き抜いている。われわれの北方の歴史の流れを引き継いでいる古朝鮮、高句麗、渤海を“中国の地方政権”だと言いながら。一帯一路は機会なのか、危機なのか。韓半島の覇権戦争のシグナルではないだろうか。“遼東の風塵”が再び起こりつつあるのだ。
(9月18日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。