100歳迎えた中曽根氏


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 高句麗の長寿王。広開土王の息子である彼の名前は巨璉だ。長寿王79(西暦491)年の記録には「12月、王が亡くなったが、年は98歳だった」と書かれている。わが国の歴史上、最も長い79年も王位を享受した。(中国の北魏の正史である)『魏書』の記録は少し違って「璉が死んだが、年は百余歳だった」とある。
 王位を継いだのは孫である文咨明王、羅雲だ。息子の助多は父王より早く死に古鄒大加(高句麗の官職名)にとどまった。

 長く生きた王としては朝鮮の英祖(21代王)も挙げられる。82歳で死ぬまで52年間、在位した。(子息の)思悼世子・愃が米びつに閉じ込められて死んだ時は、在位39年になった年だ。2年後に英祖はこんな言葉を残している。「皆が梟獍(母鳥を食べる梟と父親を食べる獣)のことを言うが自分が梟獍であり、党習(党派の悪習)のことを言うが、自分が党習であることを知らない」。思悼世子にまつわる心痛い記憶がこの時まで残っていたのだろうか。

 英祖の時代に隣国の清には乾隆帝がいた。長生きしたことでいうならば、彼も歴史に残る部類で、88歳まで生きた。在位60年だが、亡くなる4年前、皇帝の座を15番目の息子に譲り渡した。年老いてしまった兄たちは継承順位が下がっていった。

 3人の共通点は何か。皆が大変な業績を挙げた。長寿王は高句麗の全盛期を開いた。英祖は蕩平(党派の争いをなくそうとする政策)によって朝鮮を復興させた。実事求是(事実に基づいて真理や真相を探究すること)を叫んだ実学が芽生えたのはこの時代だ。乾隆帝の時代は清帝国の全盛期だ。好学の君主だった彼は歴史上最大の文化事業である四庫全書を編纂(へいさん)した。(実学の一派を起こした)燕厳朴趾源(燕厳は号)が清に行って文化的な衝撃を受けたのは乾隆帝の70歳の祝宴の時だ。

 日本の中曽根康弘元総理が27日、100歳になった。今も週に2、3回ずつ事務室に出るのだという。長寿の秘訣(ひけつ)について秘書は語る。「運命に対して従順であって、心を安定させること」だと。中曽根氏は日本製品が世界市場を席巻した1980年代に日本を導いた人物だ。わが国と親しくするために努力した。老政客の語る「運命」は、「対立を超えて」歴史を見詰める慧眼(けいがん)がこもった言葉ではないか。対立を事とする政治家なら心の安定を運命から求めることは容易(たやす)くないだろう。彼が長く政権を握っていたら日本はどのように変わっていただろうか。 (5月29日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。