ベトナム残留日本兵、家族の絆の強さ印象づける

山田 寛

 先日NHK・BSで放映された「遥かなる父の国へ ベトナム残留日本兵家族の旅」は、ベトナムに残された家族たちの父親との絆を強く印象づけるドキュメンタリーだった。

 ベトナム残留日本兵は、1945年の日本敗戦後、ベトミン(ベトナム独立同盟)の抗仏戦争を54年の勝利まで援(たす)けた。総数600人以上。現地で妻子を持った者も少なくなかったが、勝利の後、ベトミンの共産主義政権の方針で、妻子と離され日本に送還される。

 昨年3月、天皇、皇后両陛下がベトナムをご訪問、そんな妻子と懇談された。それを機に彼らに光が当たり、10月に14人の息子・娘が日本に招かれ、異母兄弟姉妹と会い、父の墓参りなどをした。

 病身で懇談に出席し、両陛下に優しくねぎらわれ感涙に咽(むせ)んだ妻、グエン・ティ・スアンさん(93歳)は45年に清水義春さんと結婚、4人の子を産んだ。母子が再訪した清水さんと再会できたのは2006年だった。

 だが、スアンさんは「とても優しかった夫」を愛し続け、子供たちも父を慕い続けた。子供らは12年に「父死ス」の連絡を受けたが、母への衝撃を恐れ、黙っていた。今回の旅で、日本の妹から父の分骨を手渡された。

 旅の後、病院で寝たきりの母に初めて父の死を告げ、父の法要が盛大に行われた。スアンさんも「妻の務めだから」と病院でベッドをたたいて訴え、出席した。

 夫から贈られたハンカチを愛(いと)しそうに撫(な)でていたスアンさん。妻の務めを果たしてすぐ、今年1月亡くなった。

 死ぬまでベトナムに住んだ残留日本兵もいた。

 古川さんはベトミンから脱走、南部のメコンデルタで現地の妻2人、子供8人と暮らした。死亡したのは1970年代前半のベトナム戦争末期。当時、私はサイゴン(現ホーチミン市)駐在記者で、その訃報を受けた。日本に帰り評論家の秋山ちえ子さんに彼の死を話したら、ひどく驚いていた。以前デルタを訪れ、彼を取材したということだった。

 秋山さんが75年に著したエッセイ集によると、古川さんは軍隊口調丸出しでこう語った。

 「古川は日本にちょっとでも帰りたいであります。しかし故郷には母が生きているとのことであります。おふくろから泣きつかれたら再びベトナムに帰る心が鈍ると思い…帰れないのであります」「2人の女房と8人の子供に責任をとらなければならない」「さすが日本人…責任を全うした。古川にとって大切なのはこの言葉であります」

 ベトナムの家族との絆+「日本人の責任」だった。

 母がいるから帰れないとは悲しい。演歌「岸壁の母」のモデル、端野いせさんの息子、新二さんも、母の死の十数年後、上海で妻子と暮らしていることを突き止められてこう言った。「母が待っているのは知っていたが、自分は死んだことになっている。今更帰って、あれだけ有名になった母の顔を潰(つぶ)せない」

 「虜囚の辱めを受けず」戦陣訓の後遺症もあるが、中国で元日本兵が生き延びるには、知られずひっそり生きるしかないと考えたのだろう。

 戦争の悲劇。軍国主義、全体主義、共産主義の冷酷。そんな中でも、心の結びつき、家族の絆の強さ、大切さを、ベトナム残留日本兵家族たちは示してくれた。

 ベトナム戦争中、レイプで多くの子を産ませた外国軍兵士には、絆も何もない。

 不誠実な日本兵も少なくなかっただろう。最近でも、フィリピン女性に日比混血児を生ませて逃げた無責任男たちなどがいる。でも、日本人の残した家族、子孫に心で接し、絆をつなぎたい。その積み重ねが日本の対外関係の宝にもなるだろう。

(元嘉悦大学教授)