「仁川上陸」最後の参謀
作戦名「クロマイト」。朝鮮戦争の戦況を一気に逆転させた仁川上陸作戦のことだ。ダグラス・マッカーサー米極東軍司令官は1950年6月29日、漢江戦線を視察する時にこの作戦を構想したという。戦争が勃発して5日目にこんな構想を持ったというのが驚きだ。当時、米軍が1600㌻に及ぶ仁川沖合の情報を確保していたので実現できた。第2次世界大戦が終わった直後に、米軍が日本軍の武装解除のために朝鮮半島に入って来た場所が他ならぬ(全羅北道の)群山と仁川だ。米軍はこの時、水深と潮の干満差、接岸可能地域など、詳細な情報を記録として残していたのだ。
マッカーサー氏の作戦参謀たちは最初、洛東江戦線の周辺や北朝鮮軍の後方10~25㌔地域を上陸地として提案したという。上陸時に砲兵の支援を受けようとすれば、あまり後方に行ってはいけないという判断だった。するとマッカーサー氏は戦況を記した地図の仁川に矢印を描いて「臆病者たちめ。私はここに行くんだ」と語ったという。当時の参謀たちの中で最後まで生存していたエドワード・ロウニー予備役中将の証言だ。4年ほど前、米ワシントンの郊外にある退役軍人たちの施設に住んでいたロウニー将軍から直接聞いた話だ。
仁川は最適の上陸地ではなかった。陸軍軍事研究所のナム・ボラム研究員によると、米軍は朝鮮戦争当時、作戦計画100―Aと100―B、100―C、100―Dを立てた。Aは群山に上陸する最上の作戦。米8軍が北朝鮮軍に対する反撃に成功した時、群山に上陸して挟撃するというものだ。反撃に失敗した時、奇襲を敢行する作戦が他ならぬ100―B、仁川上陸作戦だ。Cは仁川に上陸できない場合、群山に再上陸を試みるものであり、Dは全ての上陸作戦が失敗した時に韓国軍の2個師団が(江原道江陵市の)注文津に上陸するという計画だった。
仁川上陸作戦を準備し、直接参戦したロウニー将軍が今月17日、この世を去った。朝鮮戦争だけでなく、第2次世界大戦とベトナム戦争に参戦したベテランの軍人だ。彼に会った時、韓国と韓国人に対する深い愛情を感じることができた。「次の日程があるので」という秘書の催促にもかかわらず、「これだけは是非、聞かせてあげたい」と言いながら、懐からハーモニカを取り出して、『アリラン』を吹いてくれた記憶が今もはっきりと残っている。故人の冥福を祈りたい。
(12月25日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。