拉致被害者救出が第一、でも残留日本人も忘れまい
朝鮮半島の緊張が急加速する中、北朝鮮は多数の外国報道陣を招き、大ミサイル軍事行進などを取材させたが、日本取材陣には、特に日本人遺骨の埋葬地を見せ、そして残留日本人老女と会見させた。
2014年の日朝合意で、日本側は、拉致被害者、第2次大戦終戦前後に北朝鮮域内で死んだ日本人の遺骨、残留日本人、戦後の在日朝鮮人帰国に伴った日本人妻など行方不明者の調査を要請した。
北朝鮮は、90年代から一部の日本人妻の里帰りを認めたが、金体制賛美の宣伝隊の感もあった。遺骨埋葬地も、2012年から遺族に訪問を認めてきたが、遺骨返還が1体何百万円もの外貨獲得手段になると皮算用しているようだった。
しかし、日本側は、あくまで拉致被害者の帰国最優先である。そこで、第3の残留日本人カードを切ってきた。終戦時に朝鮮北部で残留孤児(当時12歳以下)になった、荒井瑠璃子という84歳の女性が、「日本に帰り両親の墓参りをしたい」と訥々(とつとつ)と訴えた。
北朝鮮の担当大使は、「拉致問題など関心がない」と取材陣にはき捨てたとか。
拉致問題を完全棚上げしながら、人道ポーズの代替カードで日本を揺さぶり、米政権にブレーキをかけさせたい、との思惑があるのだろう。
私は10年前、北朝鮮残留孤児の母と娘を描いたノンフィクションを書いた。主人公、小泉芳子は朝鮮人留学生と結ばれ、朝鮮北部に渡り、大地主の妻、4人の子の母となったが、日本の敗戦ですべてが暗転する。
夫に裏切られ、ソ連進駐軍地区司令部の労役に差し出されたのは、4人目の末娘を出産した10日後だった。末娘を小作人の女性に預け、結局その娘が残留孤児となった。芳子はソ連軍副司令官に暴行されかけ、必死に脱出、命からがらの逃避行の末、子供たちと離れ離れのままの帰国を余儀なくされた。
帰国後の芳子は、一杯飲み屋から初めて商売で大奮闘する。末娘とは、1962年に日赤を通じ1回だけ連絡がつき、「夜、お母さんの夢を見ては涙を流しています」という手紙を受け取った。だが、その後また連絡は途絶えた。2004年、私が90歳の芳子に会った時、彼女は「娘を探し出すまで、あと15年は死んでなんかいられない」と言ったが、同年末、病没した。
中国残留孤児の帰国問題がほぼ完了し、残留日本人帰国問題で残るは北朝鮮だけだ。07年半ばには、厚労省によれば、未帰還者48人、うち残留孤児は22人ということだったが、現時点で何人生存しているのだろうか。
私はその本の取材で、終戦前後の朝鮮北部の大混乱と日本人避難民の苦難について、体験談を集めた。避難行は本当に苦しく、ソ連兵の蛮行は最悪だった。収容所を転々として南へ向かう日本人集団を見ると、銃で脅して「女を出せ」。収容所では、被害者の女性たちが頻繁に自殺した。帰されてきた女性が、その夜、石油缶を足台にし、蹴って首を吊(つ)る。石油缶の転がるカラカラという音が、毎夜2~3回も聞こえたという証言もあった。
そんな苦難の末、遺骨になった人々、残留者となった人々のことを忘れるべきではない。だが、日本人の大半は、北朝鮮残留日本人のことなど知らないか、無関心のようだ。北朝鮮の小細工の道具か、過去の化石のように思っているのではないか。
もちろん、朝鮮半島が有事でも無事でも、絶対第一の喫緊の課題は拉致被害者救出だ。だが、その後で、一層老いた残留日本人の帰国問題にも、可能な限り速やかに取り組むべきだと思うのである。
(元嘉悦大学教授)






