真実が重視されない選挙戦

Charles Krauthammer米コラムニスト チャールズ・クラウトハマー

平気で発言翻す候補者
討論会はクリントン氏優勢

 大統領選まで6週間足らず、注目点はどこにあるのか。共和党候補ドナルド・トランプ氏と元ミス・ユニバースが対立している。トランプ氏は20年前にこの元ミス・ユニバースを「ミス子豚」などと呼び、激しく批判した。わずか数週間前には、ヒラリー・クリントン氏の軽い肺炎をめぐる騒ぎが、命取りにもなりかねないとまで騒がれた。最新の注目点としては、トランプ氏が第1回大統領候補討論会で37回、鼻をすすったことがある。医師のハワード・ディーン氏は、コカイン中毒を疑った。

 コーヒーすら飲まないというのだから、それはない。選挙戦のレベルは下がるばかりで、異様であり、狂っていると言ってもいいほどだ。問題はどこにあるのだろう。

 トランプ氏の共和党大会での演説の中で、注目されなかったが、驚くべき発言があった。大統領になれば「今、国中に蔓延(まんえん)している犯罪と暴力はすぐに、あっという間になくなる」と言った。

 「減少する」ではなく、「なくなる」と言った。

 人類はハムラビ法典以後ずっとこの問題に取り組んできた。なのに聴衆は笑わなかった。喝采を送った。

 その場の思い付きで言った大ぼらではないのは確かだ。プロンプターを読んでいたからだ。その数週間前、ノースダコタ州での会議で「政治家はあなた方を利用し、票を奪った。なのに何も与えない。私はすべてを与える」と言った。

 「すべて」と言った。「皆さんが50年間求め続けてきたものを私はあげたい」と言ったが、誰も笑ってはいなかった。

 シャーロットでアフリカ系米国人を標的とした選挙戦を開始したトランプ氏は演説で、現在の米国で黒人憎悪がどれだけ大きな影響を与えているか、自説を述べた上で、「私はそれを直す」と約束した。

 米国の政治はこんなにも粗野だったのだろうか。何を直すというのだろう。家族構成か、文化か、自己破壊的な傾向か。どのように直すというのか。それは言っていない。ただ、直すと言った。信じてくれと言った。

 出馬表明から1年3カ月、不信感は今はどこにも感じられないほどになった。ユークリッド幾何が通用しない、事実などどうでもよく、歴史と論理が消滅した別の宇宙にいるようだ。

 最初の討論会前、支持率はほぼ互角だった。トランプ氏のハードルは笑えるほど低かった。①大失敗をせず②多少一貫性のあるところを見せればよかった。

 トランプ氏はそのハードルをクリアした。最初の30分、選挙戦の大前提を明確にした。つまり、現状は悪く、クリントン氏はそこに30年間ずっといた。現状でよければ、クリントン氏を支持すればいい。変えたいなら、私を選べということだ。

 まったく単純過ぎる。クリントン氏は、トランプ氏はこれまでに起きたことすべてがクリントン氏のせいだと言わんばかりだと笑った。だがトランプ氏が言っていることはまさにそういうことだ。一部は功を奏している。

 従来通りの方法、つまり、落ち着いた物腰、論理的で、情勢に通じていることを示してクリントン氏は討論会を楽に物にした。しかし、従来通りの方法では、今年の討論会で目に見えるほどの大きな変化をもたらすことはできない。変化をもたらすことができるものがあるとすれば、それは討論自体ではなく、トランプ氏が残していった時限爆弾だ。

 トランプ氏の大きな弱点は、虚栄心が強いことだ。気質上、個人攻撃されると、反撃せずにいられなくなる。資産のことになると特に敏感になる。トランプ氏の自分自身のイメージの中心にあるのは、優れたビジネスのセンスだ。だから、討論会で、税金に関して抜け目がないところを自慢したいという誘惑に勝てなかった。8600万人の聴衆に、税金をまったく払っていないことを認めたも同然だ。「そのおかげで賢くなった」と自慢げに話した。

 これが大変な間違いだった。これに対してクリントン陣営は次の日、「税金を支払っていないことがトランプ氏を賢くするのなら、トランプ氏以外の私たちはどうなるのか」と反撃した。一方のトランプ氏は依然、ラストベルト地域の労働者らを標的としている。選挙人団らの戦略はこの労働者らの票次第だ。労働者らはまだ、大金持ちこそ税金を払うべきであり、「私が代弁する」というトランプ氏をまだ信じている可能性がある。

 このような大失敗をしたとき、候補者の対応は、強気の賭けに出て、おかしいのは税制であり、法的に払う必要がなければ払わないと訴えるか、そんなことは言っていないと否定するかだ。実際にこの選挙戦の大きな特徴として、候補者らが、録音されていることでも、発言していないと涼しい顔で否定することが挙げられる。例えばクリントン氏は、環太平洋連携協定(TPP)は通商協定の金字塔だとかつて話したが、これを否定した。

 もっと驚くべきことが一つある。それでも問題なく選挙戦を戦っていけていることだ。

(9月30日)