猫選手を応援するわけ
国旗・国歌の重みを認識しよう
先日、リオ五輪選手団壮行会で、森喜朗・東京五輪組織委員長が「国歌を歌えない選手は、日本代表じゃない」と苦言を呈した。朝日新聞のコラム「天声人語」は「国を背負わされることで失われる豊かさがある」と批判し、「国境を忘れるほど」競技自体を楽しもうと呼びかけた。
壮行会でいまさらこんな苦言が出るのも、それが批判されるのも、日本だけだろう。
日本人は国旗への認識が不十分過ぎる。そんな思いから、最近、国際支援活動の大ベテランで国旗研究者の吹浦忠正氏が、NPO「世界の国旗研究会」を立ち上げた。
彼によれば、海外で活動するNGOの若者も、認識不十分で失敗する。掲揚国旗を降ろす貢納式を無視し、警察に留置されたりする。一方、先に広島で開かれたG7外相会議のポスターやチラシも、イタリア国旗の色を違え、全部刷り直されたという。
50年前、プロ野球試合前の国旗掲揚・国歌吹奏は、観客の3分の1が座ったままだった。私自身、完全に起立習慣が付いたのは40年前、タイに住んでからだ。タイは国歌と国王讃歌(さんか)があり、映画館でも讃歌が流れ全観客が立つ。国王の写真が現れ、荘重な曲が始まると条件反射で背筋が伸び、快感すら覚えた。王室と国民、在留外国人までを、讃歌が結んだ。ワシントン駐在時は、街に星条旗が林立する風景に、全く違和感がなくなった。
大学教員時代、私は授業で、北京の日中サッカー試合前の、日本国旗、国歌への大ブーイングのビデオを見せた。だが、別の面も強調したくなった。日本選手は、国歌吹奏で所在なげに黙し、中国選手は胸に手を当て、大声で歌う。その違いである。
日本では、冬期五輪で金メダル獲得後、表彰式の国旗掲揚で脱帽せず、批判された女子選手もいた。
他方、やはり冬季五輪で優勝した荒川静香、羽生結弦両選手は、日章旗を背負いウイニングランをした。だが、その場面をテレビがカットしたとか、左派の新聞が写真をボツにしたとか、論議を呼んだ。そんな論議が起きるのも日本だけだろう。
新聞の外報記者時代、五輪も取材した。日本選手や欧米有力選手は運動部記者が担当し、私たちの主な取材相手は、戦乱や飢餓や災害の国の選手などだ。だが、彼らからは、たとえビリでも、胸に国旗を付けた自分がそこにいる喜びを、格別強く感じた。「豊かさが失われる」の逆だった。
リオ五輪では、初めてシリア難民などの「難民選手団」が参加する。彼らも本当は胸に国旗を付けたかっただろう。
その意味で、今回胸の国旗の意味を最も認識してほしい選手は、カンボジアのマラソン代表、猫ひろしである。
この国は、40年前のポル・ポト革命で、スポーツも“虐殺”された後遺症が残る。学校では体育の時間もない。昨年、同国テニスの復興に関するWOWOW番組の監修を手伝ったが、選手育成の困難さを実感した。
猫選手が代表に選ばれたのは、選考成績に加え、旅費は自己負担といった事情もあるからだろう。現地の若手選手を差し置いての出場だ。ニャーニャー言いながら後方を凡走するだけでは、胸の国旗が泣き、カンボジア国民は感動も誇りも持てない。120%頑張り、大会後は学校でその体験を話し、運動への関心を盛り上げてほしい。
最後に強調したい。4年後は東京五輪だが、日本は壮行会よりもっと普段から、学校教育から、もっと自然に、内外の国旗・国歌への認識を培おう。多くの学校に世界の国旗・国歌研究クラブができるよう期待したい。
(元嘉悦大学教授)